少女まんが寺

私設図書館で、『少女まんが館』なんてあるんですねぇ。
雑誌『散歩の達人』のバックナンバー「本屋さんを遊ぶ!no118」を読んでいたらこんな面白い記事を店主が書いていた。(p17)

 不朽の名作から朽ちた駄作まで、あらゆる少女まんがと関連品を保存する私設図書館。家に置けなくなった大切なまんがを奉納(寄贈)する人が後を絶たず、人形寺ならぬ少女まんが寺という感じ。古民家というかボロ民家だが、ボロい状態保ったままいつもきれいにしているから、ますます寺っぽい。バックアップを重視し、同じものを二冊保管することが原則という徹底ぶり。寝読み可で、館庭にテントを張って泊まりがけで読むのも可。というわけで書店ではないが、三冊以上重複したものの一部を処分品として販売。時価数百〜数千円のまんがを、そうと知りつつ100円で売ってたりするが「一冊も売れたことがない」と豪語する。さるすべり中野(ってオレじゃん)+大井夫婦が運営。

そんで、ホームページを拝見、参詣したわけ。(http://www.nerimadors.or.jp/~jomakan/
賽銭箱もあるし、奉納(寄贈)した人の名前までアップしている。英文で世界にも発信しているんですねぇ。スゴイ!

暴本の「暴」って、

 もう、旬ではないかも知れないが、図書館で借りたコミック、久世番子の『暴れん坊本屋さん 1・2・3卷』を一気に読みました。出版流通事情のオモシロ入門本としては、「よくぞ書きました」と合格点でしょう。でも、三巻で完結なのかなぁ、ちょいと欲求不満が残ります。まだまだ、本屋のオモシロ・エピソードはあるし、4・5・……、と続卷を出して欲しい。新中古書店、ネット書店、そして古本業界にも言及しないと、出版流通の流れが見えませんから、作者の筆力とユーモアセンスに期待して、何とか再販維持制度までアクセスして欲しいですね。再販維持制度がいいとか、悪いとかではなくて、「再版維持制度」ってナンダロウと「問い」を表に出すって言うことです。別段、僕は業界の「暴露本」の「暴本」を出して欲しいと言っているわけではなく、あくまで、『暴れん坊本屋さん』の「暴本」のセンスで描いて欲しいのです。
 ところで、『若者を見殺しにする国』は、地元の本屋さんには、まだ入っていません。梅田のジュンクとか紀伊国屋とか旭屋とかブックファーストのような大書店にはもう入荷しているのでしょうか、ところで、念のためネット書店bk1で検索したら、ヒットしなかったです。図書館流通センターにはまだ入荷していないのでしょうか。
暴れん坊本屋さん (1) (ウンポコ・エッセイ・コミックス)暴れん坊本屋さん(2) (ウンポコ・エッセイ・コミックス)暴れん坊本屋さん(3) (ウンポコ・エッセイ・コミックス3)若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か

マンガ批評・漫画学

KINO Vol.1KINO Vol.02 思考としての『ガンダム』KINO〈VOL.04〉KINO  Vol.3
 「ゲンダイモンダイ」さんが、前回に続き『日本の漫画論 後編』を音声アップしています。
 日本の漫画・アニメが輸出産業の重要なアイテムになっているとのアナウンスは麻生太郎の例をあげるまでもなく、ゲーム業界も含めてバブル崩壊以降の失われた10年においても、世の中不況を尻目に「漫画・アニメ・ゲーム」が海外で受け入れられもし、とうとう、その一つの決着として京都で国際マンガミュージアムが立ち上がったし、京都精華大学では、「マンガプロデュース学」なんて言うのも始まった。 でも、漫画そのものの売り上げが好調かと言えば、実際は新中古書店モンダイ、TSUTAYAの店の一部が漫画のレンタルを初めてみたり、海外の海賊版のモンダイなど、様々な要因が重なって、出版業界を支えていた特にマンガ雑誌の売り上げ部数が極端に減っている。だけど単行本は何とか持ちこたえて、雑誌の売り上げ減の穴埋めをしているのが現状でしょう。去年のテクストですが、確かに携帯と漫画雑誌は利用場所が似ているし、携帯ビジネスとも無縁ではないから、コンテンツとしての漫画・アニメの需要は国境を越えて伸びていることは間違いないと思う。
 一年半前に書いた僕のエントリー記事から一部引用します。

昨日の毎日新聞夕刊(’06年6月23日)で『マンガ市場 止まらない落ち込み』熊田正史氏の記事がありました。熊田さんは元週刊ヤングサンデーの編集長で、現在京都精華大学でマンガプロデュース学を講義する先生ですが、こういうキャリアを見るとマンガはもはやサブカルではなくてメインカルチャアなんだと、そのあたりの認識を精査しないで、熊田さんが言う「真の批評 不在の悲劇」と言っても、ぴんと来ませんね、昨年のマンガ単行本の売り上げは2602億円、マンガ雑誌の売り上げは2421億円で、昨年にはマンガ雑誌の総発売金額がはじめてマンガ単行本の発売金額を下回ってしまったということです。その差は200億円ですがその意味するものが大きいと警鐘を鳴らし、その最大の原因が「マンガ批評の不在」だと言うのです。
 そしてこの危機を乗り越えるために黒衣を脱ぎ捨てて編集者から真のマンガ批評家が生まれることを期待すると書いているわけです。熊田さんの見取りは、もし、雑誌の落ち込みがこのまま続くなら恐らく4,5年で日本のマンガ市場は崩壊するだろうということです。しかし、アニメ!アニメ!ニュース(http://animeanime.jp/news/archives/2005/12/2005106101231.html)によれば、アメリカで日本のマンガが売り上げを伸ばしているのですが、日本円にして200億円で、ヨーロッパ、アジアを含めた日本マンガの売上高、ブックオフを含めた新中古書店でのマンガの売り上げのデータを合算したマンガ売り上げは間違いなくマンガ雑誌の売り上げを大幅に越えているでしょう。
 問題はマンガ雑誌の落ち込みなのです。かって200万部も売っていたビッグコミックはたったの20万部で、週刊モーニングは30万部、まあ、それでも数十万部という数字は凄いと思いますが、数百万部の異常を体験した目から見れば、現在のマンガ市場が異常なんでしょう。その売り上げの低迷を生んだ一端が無知で愚かな批評だと言うのです。>>続くhttp://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20060624/p2

 ゲンダイモンダイの西嶋さんは、何とか単なる印象批評ではない「漫画学」を立ち上げたいみたいなことを言っていましたが、それ以前に「マンガ批評」がもっと盛んに行われる土壌・市場が必要なのかもしれない。批評で鍛え上げられれば、自然と「漫画学」のようなものもカタチとなっていくと思います。放送中、西嶋さんに、このブログを紹介してもらったのは、嬉しい限りです。ありがとうございました。

よつばと!フィギュア?

よつばと! (1) (電撃コミックス)よつばと リボルテックリボルテック ダンボー
 今年の63歳の誕生日のお祝いに、何故か、『よつばと!』をご婦人方からプレゼントされたのですが、本日のトラカレさんのエントリーで紀伊国屋新宿店で『よつばと!』の見事なディスプレー(ここ、クリック!)がアップされている。迫力がありますね。

ああいうのもたまにはいるさ

 今市子の『大人の問題』、『あしながおじさんたちの行方』を読む。クイアについて僕はなかなか理解していない部分があるが、確かに「クイアファミリー」の物語として捉えてもいいのかもしれない。読んでいても、読み終わっても、「幸福な気分」になれたのは何故だろう。
 子どもの頃は劇画で育った世代だから、手塚治虫でさえ、あまり縁がなかったですね。だから、更新された「ゲンダイモンダイ」の「日本の漫画論 前編」では、戦後の日本の漫画史を手塚治虫で始めているみたいですが、僕の個人史では、小学校の頃、学習塾と兼用の本屋さんが、貸本もやっており、授業が始まる前に、立ち読みするわけです。それが平田弘史であったり、白土三平であって、手塚治虫であった記憶がない。
 そんな僕だから、芳文社の「初音コミック」はもとより縁がなかったし、これからも縁がないだろうと思っていたが、同時共振っていうか、別方向から、「今市子」って面白いという声があって、偶々地元の図書館のコミック棚に『大人の問題』、『あしながおじさんの行方』があって読んだわけですが、錯綜する縦横無尽の性のクイアは不快ではなく、とても気持ちがいいのです。もっともっと、開かれた自由な発想をしてもいいんだと思う。
 赤木智弘深夜シマネコで、「横の連帯」「縦の連帯」 がエントリーされたが、「縦の連帯」っていう「ありえなさそう」な発想をしているが、着眼点は「お!」と思わせるものがある。それは立った今、読み終わった『あしながおじさん達の行方』の余韻かな。赤木さんが、「縦の連帯」をピックアップしたことは、ある種の開かれた風通しの良さに向かう余裕が生まれたことによる視界が広がったと好意的に解釈しますね。

 『大人の問題』のなんでもありを受け入れる鷹揚さと、『百鬼夜行抄』の、大人数ゆえの焦点のあいまいさ、という点が同質さを感じるのではないかな、と。 少数精鋭(?)の核家族では、関心も集中しがちだけれども、昔の大人数の一族の中では 「ああいうのもたまにはいるさ」みたいな容認のされ方もあったかな、と思うんですね。己のアイデンテティみたいなのを模索するときも、今の家族では親ぐらいしかモデルがないけれど、もっとゆるやかな結びつきの中にたくさんのモデルを持っていると、ああいうのもありか、という共感を得られることもあるのではないかと思ったりして。
 それを血族でやらなくても、規範によらぬゆるやかなむすびつきを得るモデルとして『大人の問題』はたいへん示唆に富んでいるような気がします。

 マイミクさんからの引用を一部アップしました。

はっぱ64の勘違い

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 下で、勘違いしたのですが、山本直樹の本は弓立社ではなく、太田出版です。ごめんなさい!伝言ゲームのように、どこかのネットで、勘違いすると、そのまんま、データアップすることがある。こうやって、ネット本屋にリンクすると、間違いが発見できますね。と、自己弁明。
 僕のハンドルネームが葉っぱ64だったので、「はっぱ64」というタイトルの青年漫画がどうしても気になるので、お詫びとして画像データをアップ。でも、青年漫画って、どうも、わかんないんだよね(笑)。

手塚治虫/田村隆一

 トキワ荘物語一回目

三回目五回目六回目七回目八回目・二回目と四回目がアップされていないですね。

 ごんだまさんのコメントで知ったのですが、手塚治虫オンデマンドマガジンは試し読み出来るんですね、出版流通の新たな回路が、又、一つスタートしましたというわけか。
 アトムが広報のお喋りもやってくれている。
http://www.comicpark.net/tezuka/
 本当に、田村隆一のような詩人の音声データが残っていれば、マンガの画像アップのように詩人の朗読も面白いですね、

 四年前、ある公開審査の会場だった。二十代の聴衆を前に、審査などそっちのけ(?)で、田村さんは突然立ちあがり、こう語りだしたのだ。
 「みなさん。一本の樹の下には、数万トンの地下水が流れているのです」
 やさしい声だったが、会場は水を打ったように静まり返った。それはその場にいない人のもとにもひびきわたるような、すばらしい話だった。若い人たちははじめて詩人というものを目のあたりにしたはずである。ぼくもまた、そうだったかもしれない。
 見えるものと、見えないものへの同時的な視線。そこに立って、詩人は言葉への愛をつづった。
 ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
 ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう  (「帰途」)

 荒川洋治が『文芸時評という感想』(四月社)で田村隆一を悼んでいるのですが、本棚を見ると、汚れているけれど、昭和48年五月三十日の二版発行の『新年の手紙』(青土社)がありました。初版でなくて残念ですが、多分、すぐに再版されたものだと思いますよ。この頃、僕は自分で本を売っていったわけで、それでも初版が手に入らなかったわけでしょう。装幀は池田満寿夫ですね、この時代、「詩」が売れていたのです。『文芸時評という感想』で、小田嶋隆相田みつをは『便所の神様』」(1997年「諸君!」11月号掲載)をテキストに「相田みつを現象」のことを書いているが、小田嶋は《そんな詩はほうっておけ、というのが文学の世界に身を置く人たちの「常識」であろうが、小田嶋氏は敢えて相田みつをの「文学」を俎上に載せたのである。》確かに、小田嶋氏のような立ち位置での文芸批評が少なさ過ぎる。閉ざされたお行儀の良さって困りものです。大手文芸誌だけの問題でなく、武田徹さんが書いている読売新聞社の記者がタクシー運転手のお客さんを選択する振る舞いについて、正論ではなく、現在、タクシー業界での運転手の給料がどういう状況かと言った補助線を引くことがジャーナリストの仕事なのに、単に正論を吐くだけで、事足りとしている。まず、自分たちの社会的地位が全体の中でどのように位置づけられ、優遇されているかといった自己相対化を行った上で発言して欲しいものです。少し、脱線しましたが、そういうこと。
 『新年の手紙』は開きに新年の手紙と書いた封書が貼付されている。1200円です。

 詩を書く人は
 いつも宙に浮いている
 どこにいったいそんな浮力があるのか
 だれにも分からない

 この詩集に収められている「詩を書く人は」の冒頭です。