選挙日でもある9.11そして靖国♪「脳」整理法 (ちくま新書)

 選挙に行って来ました。候補者は三人しか立っていないので、悩みました。四人目がいないのです。淀川を挟んだ真向かいには投票したい人がいますが、投票は出来ない。小選挙区って窮屈です。でも、何とか投票を済ませてきました。今日は同時多発テロの9.11でもあるので、皆さん色々アップしている。双風舎主催で本日仲正昌樹×北田暁大とのトークセッションが開かれるが、leleleさんのブログによれば、靖国問題、神道を事例に「伝統主義→ロマン主義」路線について問題提議するとのこと、屁爆弾さんも日本人と「靖国」とエントリーしていますが、僕とは随分違います。僕の立場は「死者は死者として語りしめよ」、「生者」が「死者の思いを代行して語ってはいけない」、「それは不遜である」、ただ合掌して鎮魂するだけである。
 「政治が先なのではない、霊が先なのである」という屁爆弾さんの想いには賛同である。ひさえさんのブログで「ラストサムライ」についてコメントしながら、shohojiさんのベルギーにおける礼節について触れていましたが、村上龍の『半島を出でよ』を読了して軍需に関することはよくぞ調べたと情報量は満載なのですが、上、下巻の登場人物といいストーリーといい、散漫な感じがしました。
 ただ一つ本書でかすかに流れている、繋ぎとめているものは「東アジアにある儒教」といった人の振る舞いではないか、そんなことを思いましたが、だからと言って儒教には詳しくない。三国志などを読んでそれから周辺の図書に触れたぐらいで、ちゃんと学習していないので、なんとも明晰なコメントは出来ないが、礼節であれ、儒教であれ、徳義であれ、前田英樹の『倫理の力』に言う倫理の原液ですがそんな見えない倫理、思想、宗教化しない言語化さえ無理な原液としての倫理、そういうものを信じるしかない。
 だからそれは、日本だとか、アメリカとか、韓国、北朝鮮だとか、中国だとか、パレスチナとか、イラクとかベルギーとか、国家に根拠を置く倫理であってはならない。その一点だけは神経質に検証して「霊としての死者」に対峙する。だからこそ、靖国神社というハコものに拘泥する必要はない。僕の叔父は志願で海の藻屑となった。成人を迎えてばかりで散華した。わが家の仏壇に写真をいまだ飾っています。老母は毎日、その遺影に対して合掌している。でも、靖国には一度も参ったことはない。何故か老母は小泉さんって大嫌いなので、靖国を参拝する小泉さんを見て益々靖国から遠ざかるでしょう。政争で汚れた場所でない神域な所で霊を宥めたい。その一点だけは譲ることの出来ない僕の美意識と言っても良い。
 国境を越えた霊場を設けることは可能ではないか、例えば竹島(独島)を東アジア全体で第二次世界大戦で犠牲となった人びとをまつる島として平和記念の聖域として合意する。そんな具体的で前向きな提案はないのであろうか。

不連続読書日記

 メルマガ登録しているオリオンさんの『読書日記』が連続二号ネット配信されました。保坂和志の『小説の自由』、と野矢茂樹の『他者の声 実在の声』を同時進行で読んだのです。中々面白いので紹介します。

小説は外の何ものによっても根拠づけられることのない、ただ小説自身によってのみ根拠づけられる圧倒的な主語なのだ。/本当の自由とはここにある」(278頁)。

 しかし、保坂和志の『小説の自由』は「死者」にも言えるなぁ…。死者は外の何ものによっても根拠づけられることのない、ただ死者自身によってのみ根拠づけれれる圧倒的な主題なのだ。靖国問題をそこから考えたいものです。
 保坂和志石川忠司「小説よ、世界を矮小化するな」(『群像』10月号に掲載)、茂木健一郎の『「脳」整理法』も読まなくては…、