頭がよくてどこが悪い

 武田徹オンライン日記9、11選挙を読むと暗澹たる思いはするが、「経営を取るか、ジャーナリズムを取るか」という問いは簡単明瞭であるけれど、多分、これしか選択肢はないのだろう。ブロガーのお尻を叩いているが自己語りに精一杯でどこまで出来るか心許ないが、政治的メッセージでない数歩手前での小石の波紋ぐらいの足跡は残せるかもしれない。

自民党すら無党派層とかなりの部分重なる都市型保守頼みとなった状況で、メディアと言論人の責任はこれから実に重くなる。民意を汲んで支持を手放すことなしに、いかに民意と距離を持って、自省を促す視点を提供出来るか。極論だけど新聞は、もう本気でTVは切り離しちゃったほうがいいのではないか。経営を重視して作ってきたシステムが、小泉的な政治家の手法にあっけなく踊らされてしまうのであれば、経営を取るか、ジャーナリズムを取るかという、もはや殆ど考えることもなくなっていただろう青臭い選択肢が、実は今こそ改めて極めて重要になっていることに気づくべきではないか。政治力で業界再編を受け入れた過去を捨ててジャーナリズムの側からの業界再々編を、というのも単なる思考実験を越えて、検討の余地があるのではないか。あとブロガーも頑張って欲しいですわ、本当に。ー武田徹オンライン日記 よりー

 小泉のメディア戦略は見事というしかない。『阿部和重対談集』保坂和志と「ドンキホーテの狂気」について語っているのですが、阿部和重メタフィクションサンチョ・パンサの部分が強調されて賞の選評なんかで頭でつくり過ぎているんではないかという批判があるけれど、阿部はしかし当然頭も体の一部なわけで「いやいや、むしろできる限りフルに体を使ってやっていった果てに倒れたのだ」と嘆く。保坂が阿部を評価するのはメタ・フィクションでありながら、生得な「ドンキホーテの狂気」を感じる。そこのところだと言うわけ。

保坂 頭を使うとか理屈っぽいというのがよくないことになっているのでしょう。
阿部 何かすごく軽視されていますね。
保坂 頭を使うことやインテリであることを卑下したり、頭を使わない人が頭を使っているやつをばかにするような風土があるのは、多分世界中で日本ぐらいじゃないか。
 その起源についてちょいと考えたことがあるんですよ。その一つは、中野重治とかが名を成して地方に帰ると、「おまえはいい大学を出て、政治家にもならないで何をやってるんだ。文章を書いているだけじゃないか」というふうなすごい強固な風土がある。そしてまた東京に戻ったときに、地元で全然評価されていないというところで、大衆の強さを今度はインテリが持ち込んじゃったんじゃないか。そんな感じが一個の要素としてあるのではないかと思っているんですが、僕はそれを気にしないことにした。頭がよくてどこが悪いみたいなね(笑)。

 恐らく武田さんの「経営かジャーナリズムか」は文学に置き換えることも出来る。「頭がよくてどこが悪い」みたいな口舌でジャーナリストであり続けることは物凄く大事だと思う。政治家のように「国民のために…」という胡散臭さで言葉を編んで欲しくない。まあ、僕も馬鹿な国民の一人であるけれど、馬鹿から一歩進んで賢くなろうとしているからこそ、こんなブログを継続しているところもあるのです(笑)。
 meditationesさんの小泉の新自由主義保守で犠牲になるべき弱い人がむしろ小泉を支持した現象はだからこそ、一発逆転がありそうな妄想を与えてくれる小泉劇場のノウハウを馬鹿にしていたツケを野党は背負い込まされざるを得ない。結局、ギャンブルに勝つのは資金力であるが、小金があれば、参加出来、明日はひょっとして大金持ちにならるかもしれない夢を持たせる。そんなことはありえないのであるが、ありえーるでもある。そんな夢を馬鹿な国民は見たがるのです。
 インテリであることを卑下することがあっても、金持ちであることを卑下しないもんなぁ…。
参照♪うたかたの日々小泉タレントショップ』♪http://d.hatena.ne.jp/eirene/20050912『選挙結果』
風の旅人 編集便り 〜放浪のすすめ〜『風の旅人』編集だより :解散 総選挙(注 kosekiさんの長文のコメントでかぜたびさんが気分が立って長文のレスを本文にアップしています。そのやりとりをロムして僕も気分が高揚しました。諦めないで展望を見出そうと勇気づけられました。)
♪ ♪民意とは!? - 風の旅人 編集便り 〜放浪のすすめ〜