他者に魅了される度胸

榎本香菜子/蝸牛の時間

竹信悦夫の『ワンコイン悦楽堂』をダラダラと読んでいたら(高橋源一郎×内田樹の対談を初め頃読んで、前後つまみ食いで行きつ戻りつ読んでいるのです)、37番の『知ることを拒否する姿勢は正当化されうるか』エントリーでピッキングされている本は宮下マキの『部屋と下着』なんですが、何と頭からフランスの国際月刊紙『ル・モンド・ディプロマティーク』エドワード・W・サイード「バレンボイムとワーグナをめぐる論争によせて」という文章を紹介している。本書は巻末の「文献・URL」リストが充実していてリンクを張ることができました。それで↑のテキストをクリックしたのですが、きちんとした翻訳で読むことが出来るんですね。2001年7月にバレンボイムの指揮でワーグナの作品がイスラエルで始めて演奏され、イスラエル国内で騒ぎになったことをきっかけに「他者を知ることを最初から拒否する姿勢は許されうるか」などを問題としてサイードが書いているのです。
 今年見た映画『ルート181』にも引き継がれるいまだにあらゆる場面で露出する困難な問題ですが、竹信悦夫若い女性写真家が3年間かけて様々な都市をまわり、同世代70人の自室での下着姿を撮影して出来た写真集『部屋と下着』という本につないでみせるのです。「(女性という)他者に魅了され、知らない方がましだという態度にひそむ理不尽さを断固として拒絶する」というメッセージなのです。
 この書評集はかような一見縁のなさそうな本を強引につないでみせる手管が随所に見られるし、落ちですか下げですか、時にはオヤジギャグのような苦しい展開もあります。だって、チョムスキーの『9・11』の書評タイトルが「星条連合物取一家」で、或塊多組、慰楽会の伏犬親分だとか、この人がかって中学生で「現代詩手帖」に特選入選して寺山修司が絶賛し、高校で「小林英雄論」を書き、「伝説の小学生」だと言われていた人とは驚きです。かって灘高校高橋源一郎らの文化的リーダーで学園紛争を仕掛けはするが、するりと、消えて高橋さん達が中心となって運動をするわけですが日本で最初の高校生による学校占拠闘争(大阪の市川高校)は殆どが灘高校の生徒だったのですね。だけど、竹信は東大に入り政治とはきっぱりと縁を切って吉本新喜劇のノリで内田樹と付き合ったと言う。何とも不可思議な三人リンクです。
 そして、彼は2004年9月1日、マレーシアのランカウィ島の浜で遊泳中に……、
水の中
に没する。合掌。
『栗カメの散歩漫歩』「多和田葉子の放浪・翻訳・文学」をロムしたら、とても気になる言葉を引用していた。
もともと日本というものがあって、そこに帰れるんだと思うのはおかしいんです。回帰できるような日本文化という場所は自明のものとして存在してないのだという意識がなければ、谷崎はあのような作業はしなかったんじゃないかと。 ー ユリイカの2004年12月臨時増刊号「総特集 多和田葉子」124〜125頁 よりー
 谷崎は関西に移り住んで13回も転居したのですが、先日の3/31日付けの毎日新聞夕刊特集記事「探し求めた作品の『場』」でたつみ都志は谷崎潤一郎を『場の作家』と命名しているが、確かに80年の生涯で引っ越しが42回とはまさに背中に『場』を背負った蝸牛ですね。そして作品が更新されるたびに『場』も更新する。『他者と国家』の問題も蝸牛の歩行で考えて行きたいといいうのが、まあ、僕の立ち位置と言えば言える。神戸岡本にある「ナオミの家」が一昨日、昨日と始めて公開されたのですが、行きそびれてしまいました。