婆(爺)クラッシュ!?

武田徹オンライン日記『バックラッシュ非難2』(8/11)僕のブログにカキコしたてるてるさんの問いに武田さんが触れている。

「てるてる」さんが赤木発言についてコメントしてて、「痛切な叫びを投げつける先が、どうして「バックラッシュ」という本を書いた人達なのかが、疑問なんです」と書いているんだけど、ここは宮田も書いているように答えはごくシンプルで、「助けてくれないから非難した」、それだけなのではないかと。「やる」と「言う」は違うってのはまさにそのこと。

 武田さんはそのことについて丁寧に答えている。

で、話を少し変えると、バックラッシュ森喜朗的なマッチョイズムと、赤木的な(彼の場合はもはや確信犯だが)ルサンチマンのかけ算としておそらく成立するのだろう。森的マッチョをやりこめるのを遠い宿題だとしても、せめて赤木的なルサンチマンをいま解消させられなければ論理としてもやはりあまりにも力不足ではないのか。そんなもの、机上の空論と言われても仕方がないのでは。赤木的なものに感情的な(といわれているけれど、実はかなり論理的な)反発をさせずに、せめて読者共同体の中にを含み入れられる程度の広がりのある論理を作り上げて欲しいと言いたい。それが「言う」を「やる」に変える準備の最初の一歩だろう。そうでもしないとバックラッシュを一所懸命批判していたつもりが、いつのまにかそういうやり方では救われないと考える人のルサンチマンを蓄積させて巡り巡ってバックラッシュ推進に力を与えてしまうことにもなりかねない。本が内輪でそこそこ売れたからいいっていう考え方は罪深いよ。

 一部、勝手に引用しました。言論人はそこまで、目配り気配りをするものなのか……、
参照:★お便り(双風舎御中):読者共同体のあり方: ※※※返信: ※※※macska dot org » コミットメントを欠く「フェミニズムへの助言」への懐疑

死に花

死に花 [DVD]パタリロ源氏物語! (1) (花とゆめCOMICS (2718))
 「婆(爺)クラッシュ?」のエントリーのコメント欄で長文のカキコをしてしまいました。下に伸びて読みにくいので↓のエントリーでもここにカキコしても結構です。
 今日、老母と見た映画DVDは犬童一心の『死に花』でした。爺ィ達が銀行強盗するのです。映画としては『ジョゼと虎と魚たち』と比べると一歩も二歩も劣ります。メルヘン過ぎるのです。ここの老人ホームがあまりに豪華し過ぎて、僕には全く縁のないホームなのです。
 まあ、カネに不自由のないお年寄り達が退屈のあまり銀行に押し入るためにトンネルを掘る、そこで、戦争の記憶をも掘り当てることになるというヒューマンな補助線もあるのですが、カネのないお年寄り達が切羽詰まって切実さのあまり銀行強盗する物語かなぁと期待していたのですが、甘かった(笑)。
 どうも、お金がありすぎて、どう消費しようかと困っている爺婆達にはやっぱし感情移入できませんね、これこそ、「婆(爺)クラッシュ」です。

働くもの食うべからず?

 ソネさんのコメントカキコに関してマイミクさんが下記のようなカキコがありました。
>ビンボーで教養もない東南アジアの男性が、日本の働いている女性に食わせてもらって小遣いまでもらうヒモ状態でありながら、イバっているのは、なぜなんでしょう。彼らには日本のヤングメンが持ち合わせていない 矜持とかプライドとかがあるからっていうんですが
というの、文化の差というのもありません?
「ヒモ状態」って恥ずかしいものだ、というイメージこそ、世界中眺めたら、めずらしいってこともあるのかもしれない、などと思いましたが、どうだろ?
だって、ある意味「貴族的」ではありませんか? それで、「いばっている」のではないかしら。
それに対して僕は次のようなコメントをしました。

まあ、奥田瑛二安藤和津物語もありますね。
そうだよね、お殿様だものね、 専業主婦にしてもお手伝いさんが居れば、 お姫さまだもの…
不運な王子、貴種と転生の物語、そんな物語が文化としてありますよね、
むしろ「ヒモ状態」が恥ずかしいって言うのは、近代の産物でとくにプロテスタンティズム精神が産んだものでしょう。「働かざるもの食うべからず」
でも、これは働くことがプロレタリアートという階級カテゴリーで科学的に思想的に押し込められて、左からも結局同じようなメッセージが強要された。「働かざるもの食うべからず」
そのような、社会主義的なもの、新自由主義的なものから、距離というより、全く違った文化のシーンで生きている人びとがいることは間違いない、
ソネさんとマイミクさんのカキコで具体的な知人を思い浮かべました。
彼はビンボーなんだけれど、そのことに関しては屁とも思っていない。生き方が「貴族的」なのです。
好きな女の子がいれば、相手の家に忍び込めばいいのです。 源氏物語の世界ですね、
カネはなくとも「光源氏」ぐらいにはなりたいという 思いは僕にもありますよ、
でも最近は光源氏は知っていても、「源氏物語光源氏」を知らない人が増えてきました。そのことを文化の危機と捉えるのでしたら、合点がいきます。
「働くことに教養はいらないけれど、源氏物語を受容するには教養がいる」
そういう意味で「ビンボーで教養もない東南アジアの男性」は文化として(無意識層として)「教養」を持っているのかもしれない、まあ、それを男文化として一刀両断する理論武装は簡単に出来るでしょう、でも、それは、男と女の性差を越えて、欲望の構造にがっちり食い込まれている。『源氏物語』は女の人が書いたものであることは間違いない。

 どちらにしろ、働くものより、働かざる「遊び人」が古今東西モテていた歴史がありますよね、僕らの青春時代でもフーテンはもてました。でも、今はそんな時代ではない、大筋としてはビンボーな若者がモテなくなった。でも、それはマスコミ情報でビンボーであろうとなかろうと、モテル奴はモテる。そりゃあ、ホリエモンはモテたかもしれない、でも、その事例はあんまり普遍性がない、結局、もてたい男にもてず、もてたい女にもてず、束の間でも鍋釜持って相思相愛って言うのがすごく少なくなったというのは事実でしょう。
 犯罪事件として時には「王子様」が出現する嫌な時代になったことは間違いない。
 そして、「ワーキング・プア」って、結果として「働くもの食うべからず」が進行している由々しき事態だと言うことでしょう。