僕は猫でないけれど、去勢手術

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 双風舎さんや、てるてるさん経由きっこさんの猫殺し作家の屁理屈を読んだのですが、「子猫殺し」の坂東眞砂子のエッセイよりはきっこさんの語り口の方が怖い濃度を感じました。批評にはなってはいないではないか、わめいているだけ。典型的な自己表出のみですね。
 猫自体の叫びなら切実さで訴えるものがあるでしょうが、残念なことにきっこさんは猫自体でなく人間なんです。
 猫の代弁なんてできやしない、それでも喋りたいと思うなら、猫の気持ちはわからぬが、私の気持ちはこうよと、坂東さんに向かってこのエッセイの批評をすればいい、坂東さんの作品自体、ホーラー小説自体を貶める行為は断じておかしい、かって筒井康隆さんが断筆宣言した気持ちがわかりますね。
 てるてるさんは森岡正博さんの『無痛文明論』を取り上げていましたが、確かに生命倫理のサイトからクールに検証すべきでしょう。
 uumin3さんは「線引きの問題」として、「苦痛の感受性」、「罪深さの軽重」について落ち着いた文章で、このスキャンダラスなテーマを分析して下さっている。きっこさん流に「猫から人間に」荒っぽくジャンプしていうと、前立腺癌の同病者で去勢手術が嫌で(セックスが出来なければ死んだ方がましだ!って言ったのです)亡くなった知人がいましたが、僕はひょっとしてそのような状態は意外と気持ちのいいことかも知れないと内分泌療法を受け入れて数年経過したのですが、予想以上に悪くないのです。去勢って別の快感を生むのかもしれない。オマケに延命出来てこのようなブログ体験をしている。
 まあ、猫は猫自体で去勢手術をするか、しないかを選択できないから僕の場合と全然違いますが、坂東さんに『「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。』と言われるとちょいと反発したくなりますね、猫のことを語っているのに、僕自身の「生」が貶められた嫌な感じがしたのは事実です。だからと言って腹が立つわけではない。
 人間の都合で生きるということは「無痛文明」を自明視することですが、「苦痛」や「死」を隠蔽する振る舞いが果たして「生きることであろうか」という問いにつながるエッセイではあると思う。ここに考えるヒントが沢山ありますよ。よくぞ、書き、反発を恐れず新聞が掲載したと思います。そのことに感心します。
 追記:ハマる生活さんが「子猫殺し」に関してトラバしてくれました。かような個人的な意見をアップしているので、そのことについて僕も一言述べます。

だが今回の件についてはどうもこのまま、単に「ネット上で反響が大きかった」では済ませたくないという思いがある。このまま、氏が「直木賞作家の坂東眞砂子」として評価をされ続けることに釈然としない思いがある。何らかの反省的な釈明がされない限り、「坂東眞砂子」をネット上で検索した際、「直木賞」よりも「子猫殺し」のほうがまずは上がってくるような形にすべきではないか、そういう感情的な思いが私の中に渦巻いている。なぜこれほどまでに今回のコラムが私の怒りを呼んでいるのか、についてもいずれ検討したいと考えている。

>「直木賞作家の坂東眞砂子」として評価をされ続けることに釈然としない思いがある。
このところが全くわからないです。このエッセイと作家として評価され続けることとは全く別でしょう。死刑囚『永山則夫』の作品は評価に値するし、ジャン・ジュネの作品が素晴らしいのは松岡正剛さんが書くように「ジュネ自身が汚辱と罪悪を捨てなかったのである。あえてそれを好んで、自分で神聖戴冠してしまったのだ。これは社会の大人たちが困った。罪を悔いてくれればいいものを、青年ジュネは罪科をそのまま引きずり、マントのように翻す。」なのです。坂東さんが詩人であるかどうかしらないが、詩人は悪党であるからこそ、素晴らしい言葉を紡ぐことが出来るのです。言葉>社会に生きる悪業でなくて何で作家たり得ようか?まあ、冠の直木賞に拘泥する作家は碌でもない作家ですが、坂東さんは拘泥していないでしょう、だからこのようなエッセイを書いた側面もあるのではないか。
>何らかの反省的な釈明がされない限り、
「無痛文明」にどっぷりと浸かって「痛みのない密」を吸っている僕は去勢の日々で、むしろそのことに快を覚えているから、坂東さんのエッセイは僕の惰眠を脅かすもので、そんなおどろおどろしいことを全国紙のような大きな舞台で華々しくパフォーマンスしないでくれというのが本音の一部にありますが、それでも、坂東さんは絶対、反省してはいけない、例えフランス刑法によって罰せられようが、それは法律の問題であり、「生と死の問題」を作品を通して「表現」して欲しい。
>なぜこれほどまでに今回のコラムが私の怒りを呼んでいるのか、
このことに関して単なる「自己表出」でなく他者を揺り動かす「表現」として坂東さんを凌駕して欲しい。勿論、きっこさんにも言いたいと思います。
でも、まあ、この国は「自己表出の感情」で動員されたがっている人がどうも多数派みたいなので、僕のようにそのような生感情に対してアイロニーでマッタをかける振る舞いがどうしても理解してもらえない、少数派であるけれど、「生と死の問題」を「表現」で語って欲しいと思います。坂東眞砂子という作家がそんな困難なテーマを作品化しようとしてんだと言う、文脈上に今回の件を考えてみる奇貨にしたいと思います。単なる「言葉狩り」だけは僕は絶対許せない。
 熱いトークバトルをするなら、「ペットを飼う」という行為に対して、問題をフォーカスすべきでしょうね、そうすれば、きっこさんも、坂東さんも「ペットを飼っている」のだから、実のある論争がなり立ち得ると思います。確か子どもの数より犬猫の数の方が多いのでしょう。僕は昔からボードレールの猫になりたかった口ですが(笑)、ネットで論争するなら、「ペットを飼う是非論」ですね、「猫殺し」はそれぞれが静かに「死」と対峙して考える問題です。恐らく人間は“在る”ことで罪を背負っているのかもしれない、一方的に正義を語る“無垢性”だけは許すことが出来ないのです。“生きる”ことが何かを誰かを補食している、当然、僕も罪人であろう。
 参照:◆http://www.mainichi-msn.co.jp/photo/news/20060824k0000m040165000c.htmlEDって? - 葉っぱのBlog「終わりある日常」http://www.journalistcourse.net/blog/archives/2005/03/post_19.html
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