気になる言葉/一生懸命のいい加減さ

生き延びるためのラカン (木星叢書)日本人の精神と資本主義の倫理 (幻冬舎新書)「三十歳までなんか生きるな」と思っていた芸術脳
 ミクシィでのマイミクさんからの引用ですが、僕自身の思考実験のためにエントリーします。

(1)これまでの好きな言葉
■美的判断は倫理とは無関係である。それゆえ、美は価値判断には結びつかない。クオリアも同様です。おそらく、「美のクオリア」はありえても、「倫理のクオリア」は存在しない。なぜなら、倫理性とは、否定と懐疑からしか導かれ得ないからです。それゆえ、倫理を純粋な肯定的質感のもとで「味わう」ことなどできません。また、そうでなければ、倫理など信頼に値しません。実感と経験に抗して超越論的に作用するもの、それが倫理です。by斎藤環
http://sofusha.moe-nifty.com/series_02/2007/06/1_108a.html
◆例えば僕が反戦主義者でありながら、憲法9条護憲派に賛同出来ない理由っていうのは、こういう言葉に自分が共感してしまうからなのかもしれないです。反戦はあくまで『美しい言葉』などでは決して無く、常に自分の立ち位置や、その正当性について煩悶を続けてゆくという不断の葛藤の中で辛うじて維持されるような『倫理』に属する言葉であると思います。
また、先日大学の文化祭で小説家保坂和志の講演を聞いたのですが、そこで映画作家デヴィッド・リンチを、時系列にそった通時的な因果律や一貫した主体の自己同一性から自由な『フレームから外れた』作家として安易に称揚してしまう保坂や、その対談者である画家の古谷利裕の態度に、『美のクオリア』の体現者である芸術家としての彼らの『正しさ』については一定の理解はするけれども、その無邪気さに一抹の疑念や苛立ちを感じざるをえないのも、恐らくはこの斎藤環の言葉に共感する心性を持っているからだと思います。やはり自分は『アーティスト』とか『クリエーター』とかには決してなれないのでしょうね・・・。 byマイミク
(2)これからの好きな言葉
■正直私が働いた方が却って他人に対して迷惑となることもある。迷惑になるから働かないのではなく、だからこそ働きたいのだ。仕事における「迷惑」や「トラブル」のなかに潜む力を認めることが「無力」であること、そして関係を持つ「苦労」の出発点だ。そしてその力が「個」と「構造」の両方を変えていくのだと、時に投げやりに、時にマジメに信じながら、少しずつ、本当の意味で多様であること、そしてその面白さを具現化してゆきたいと思っている。by栗田隆子
http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20071028
◆『新撰組!』の登場人物に中村獅童扮する捨助というのがいて、これは三谷幸喜が創作した架空の人物(実在はするけれどキャラが全く違う)なんですが、これがとにかく徹底的に『うざい』『使えない』『空気が読めない』キャラクターとして描かれているんですよ。入隊するのに身分は問わないとする新撰組も、捨助の必死の入隊志願だけは絶対に受け付けません。まあ当たり前なんですが、近藤勇というキャラクターが農民出身でかなりのリベラルという設定の中にあって、捨助は、近藤勇の懐深さの常に外部にいることで、近藤勇の限界点を明示し続けるという役割を担っていたりします。特筆すべきは、そんな彼が、そうした周囲の彼に対する批判を内在化して「俺はやっぱり駄目な男だ、田舎に帰ってひっそりと暮らそう」などと決して『反省』なんかしないってことなんですよね。無能であっても彼は常に社会の中へ中へ行こうとするし、周囲に迷惑をかけ続ける。しかし、その事によって生まれた不確定性、予測不可能性が、実は幕末の偉人たちの計算された行動と同じく、時にそれ以上に、世界を流動的に変化させていくんですよね。
捨助を見てて思うのは、ああ、自分は周囲の視線を内在化させてしまった捨助なんだなぁってことなんですよね。僕に会った人の殆どは、初対面で僕が『使えない』人間であると見抜く事が出来なかったりするんですよね。一見快活だったり、色んな事偉そうに話したりするんでね。ただ、僕には周囲の状況を上手く察知して、適当に仕事をこなして行くような器用さが根源的に欠如してるんですよ。『慣れ』という普通の人間が持っている機能にかなり問題がある。だから逆に単純作業を繰り返していてもそれほど苦にならなかったり、自炊のメニューが何年一緒でも大丈夫だったり、同じ映画を何度も観たりできる『長所』もあるんですが。
じゃあずっと隠遁し続ければ良いのか、自分としては別に良いとも言えるんだけど、社会にとって、捨助のような自分がいない方が良いのか、いた方が良いのかということなんですよね。『自己責任』だとか『効率化』だとか『使える/使えない』とかいった価値感に対抗するには、やはり『使えない』自分が社会の中で、他人に迷惑をかけながら、仕事を滞らせながらも、生きていった方が良いのではないか。まあ、そんな人間を維持する懐の深さを社会が失っているのが問題な訳で、そう簡単にはいかないんですが、本質的な問題は自分が捨助と違って、『使えない自分』という周囲の評価を強固に内在化させてしまっていることなんですよね。それが自意識の過剰を生み出し、更なる不適応を生み出して行くという悪循環・・・。
『内在化された周囲の評価』という負のソフトウェアをどうやってゴミ箱に捨てて、新たなソフトウェアをインストールすれば良いのか。再帰的に捨助になる為に、栗田隆子さんの言葉にはかなり勇気づけられます。byマイミク

 栗田隆子さんのテキストは『オルタ10月号』からです。(p26、27)
 マイミクさんのこの言葉を記憶にとどめたいと思います。
 「特筆すべきは、そんな彼が、そうした周囲の彼に対する批判を内在化して「俺はやっぱり駄目な男だ、田舎に帰ってひっそりと暮らそう」などと決して『反省』なんかしないってことなんですよね。無能であっても彼は常に社会の中へ中へ行こうとするし、周囲に迷惑をかけ続ける。しかし、その事によって生まれた不確定性、予測不可能性が、実は幕末の偉人たちの計算された行動と同じく、時にそれ以上に、世界を流動的に変化させていくんですよね。」は、特に考えさせられました。
 自己責任/関係性/構造的貧困を俯瞰しながら、当事者性について踏みとどまるダイナミックな思考、運動が要請されると思う。100%自己責任でも、100%構造でも、100%関係性、そんな頑迷の立ち位置では、噛み合わない不毛なやりとりに終始して、一歩も前に進めないと思う。
 そうだ!双風舎企画の斎藤環×茂木健一郎の往復書簡はどうなっているんでしょうね。茂木さんの復信を聞きたいです。もうすぐ、年が明けます。斎藤環さんの問いはスゴク重い大事な問いだと思うのです。
 上のマイミクさんは先日、中央大学保坂和志×古谷利裕との講演対談に出席した方で、そのことに関するコメントも含まれているのです。マイミクさんは倫理について語ろうとしている。多分、保坂さんは「小説がすべてであり、倫理なんかどうでもいいと思う。

あと、あの講演会の内容については色々厳密に批判したい気持ちもあるんですが、なんかマトモなロジックに価値を置かない『いい加減な』人に対して、ムキになって反論しても徒労に終わるような気がして仕方が無いんですよね。古谷さんも偽日記の『サッドヴァケーション』評を読む限り、狂気の母性と責任の父性の相克については良くお分かりのようなのに、講演では保坂のいい加減さに単に加担しているだけのような気がしました。保坂の傍若無人さを引き立たせるため、敢えて責任の側に立って対談するくらいのことはやって欲しかったなぁ。
>ある記述に対する真偽の判断は、現実(小説の外)の規則によっても虚構内の規則によってもすぐには決定されず、決定されないからこそ、そこに書かれていることのひとつひとつをいちいち「真に受け」て読み進め、それを保持しつづけ、そしてその最終的な決定(しかしそれを「最終」とする保証はどこにもないのだが)は、「いちいち真に受けて読んでいた時間の総体(その時間を経てきた自分の脳-身体)」によって保証され検証されるしかない。(その外の根拠には逃げられない。)だから、真偽の根拠はあくまで「小説の全体」やそのメカニズムにあるのであって、「小説内の世界」にあるのではない、ということなのではないか。
こうやって偽日記ではちゃんと書いているのになぁ。真偽の設定を先取りして決定されないことによって、書かれている事をひとつひとつ「真に受け」て読み進める為にも、ある程度常識的な概念がまずあって、それと違う記述との齟齬が、宙づり感を生み出す訳で、「東京タワーは千代田区にある」という記述は「東京タワーは港区にある」という常識を皆が共有しなくては宙づり状態は生み出されない。でも、僕が言いたいのは「東京タワーは港区にある」という常識が読者にとって自明のものであるという前提が無くてはそれは成立しないでしょってことなんですけどね。社会学的言説によれば、そういった常識的な共通前提の維持がかなり危なくなっている訳で、そういう状況を無視しているようにしか見えないんですよね・・・。
偶有性についての科学が非常に困難であることは良くわかるし、そもそも実験による再現性が近代科学の根幹な訳で、そもそも科学という方法論で捉えられる事象なのかという問題があると思うのですが、それを科学的な厳密さで記述できただけで快挙でしょう。ただ、僕が危惧しているのは、やはりそうした思考がニューエイジサイエンス的なものに親和性が非常に高いんじゃないのか、僕が現実や常識をより重んじるのも、やはりオウム事件のトラウマがあるからっていうのもあります・・・

 茂木さんの「クオリア解明」は、近代科学の文脈でないところで、科学記述が可能かという冒険で、再現できなくても、たった一回性の「これっきり」でも、立ち上がるものがある。再現性がないからと言って、それは存在し得ないとは言えない。常にそれは保留すべきもので、幽霊も生身も僕も不分明である。そういう感性を受け入れるかどうかであって、理屈で説得出来る問題ではないですね。ただ、保坂さんはそれを小説でやろうとしているのはわかりますが、茂木さんは、それを科学的記でやろうとしている。そりゃあ、「100ノーベル」ですよ。(注:茂木さんがよく言ったり、書いたりすることで、クオリア解明はノーベル賞の一回受賞を1ノーベルとすれば、100倍の困難さだろうという比喩です)
 参照:「偽日記」さんから、11月7日付けの日記で応答がありました。僕自身は中央大学の講演に行っていないので、コメントする資格がないのですが、掲示保板での枡野浩一さんのコメント、「特に質疑応答が良かった。本当に凄いと思いました。瞬発的に、説得力のある「答え」を言うことなんて、簡単でつまらないことだと、自分の日々の仕事を反省しています。」を見ても、質疑応答が熱いやりとりになったみたいですね。マイミクさんも質問したらしいが、保坂さんの反応が全く別の次元で噛み合わなく、苛立ちが残ったみたい。恐らくそこに、枡野さんが書いているような説得力のある「答え」を言うことなんて、簡単でつまらないことだと、いう確信みたいなものがあるのだと思う。一生懸命のいい加減さって言うと、語弊があるでしょうか、でもそんな気がする。
 追記:僕の文責で、マイミクさんから、僕宛に来たメッセージの一部を引用します。上のテキストを少なくとも誤読しない読みの一助になると思うので・・・

いわゆる芸術家にありがちな『フレームから外れろ』的なクリシエでしかなく、やれやれ、リンチについて、何を今更あなた達はその程度の事を偉そうに言ってるの?って感じで・・・・
やはり小説家と画家は語りではなく作品そのもので勝負すべき存在であって、語りは語りに己の実存を賭けている人に任せた方が何千倍も刺激的であることが分かりました・・・。保坂さんも最後には「俺は俺の小説を読む人間しか相手にしていない」とか言い出す始末で、じゃあ、あなた今ここで何をやってらっしゃるんですか?って言いたくなってしまいました。
僕が質問で、リンチが面白いことを理解する為には通俗的な作品というのが一方にある事によって、リンチの面白さが理解出来るんじゃないの?と言ったら、保坂さんはそんなつまらないことを考えても意味は無いという。そのくせ『明日あなたに会いました』という文章の特異さを平気で説いたりして、それって『明日あなたに会うつもりです』っていう基本文を人が理解していないと理解出来ないでしょ?と言いたくなってしまいました。もう1人の画家さんも「リンチは他人との差異で映画を作ってるんじゃなくて、それ自体で存在している」とか言ってましたが、それは作家の視点であって、あなただってリンチの面白さを説明する際に、登場人物の自己同一性が保たれてないから面白い、みたいなことを行っていたけど、それだって自己同一性が保たれていることが普通であることの前提でしょ?
それを無根拠に信頼出来るから、そこから外れるなんてことを言える訳で、僕がなんでこういうことを言うかというと、リンチを楽しめる人なんて、その殆どが通俗的因果律を片方に強固に持っているインテリ人間な訳で、そこら辺の言語を鍛えていない兄ちゃん姉ちゃんなんかがリンチを理解できる訳が無い。それなのに、そういった経路無しに芸術が、それ自体で成り立つ、なんてことを無邪気に言ってしまう。そういう無邪気さがどういう上げ底で成り立っているか見ようとしていない。
繰り返しますが、その無邪気さは表現者としては正しい態度なんですが、講演者としては失格としか言いようがないです。・・・・

 偽日記(古谷利裕)さんから追記応答がありましたので、参照しやすいように引用アップ致します。

追記07/11/08)
●もうこれ以上反応する気はありませんが、乗りかかった舟なのでもうちょっとだけ。「追記」の部分について。(たんに「つまんねー」とか「ゆるいよ」とかだったら、そうですか、すいません、てだけの話なんだけど。)
●多分、あなたのいらだちは下記の部分に集約されているのだろうと思います。
《リンチを楽しめる人なんて、その殆どが通俗的因果律を片方に強固に持っているインテリ人間な訳で、そこら辺の言語を鍛えていない兄ちゃん姉ちゃんなんかがリンチを理解できる訳が無い。それなのに、そういった経路無しに芸術が、それ自体で成り立つ、なんてことを無邪気に言ってしまう。そういう無邪気さがどういう上げ底で成り立っているか見ようとしていない。》
(1)まず一点。《リンチを楽しめる人なんて、その殆どが通俗的因果律を片方に強固に持っているインテリ人間な訳で》って、あなたの「インテリ人間」に対するイメージはあまりに歪んでいます。まるでインテリ人間=社会的な強者みたいじゃないですか。そんなの何十年前のイメージですか。多分、リンチが好きなような変人とも言える「インテリ人間」の多くは、現在の社会では、かなり貧しい生活やきびしい立場を余儀なくされていると思います。(ぼくも含めて。ぼくをインテリというのはキツいけど。)それに、リンチなんかをわざわざ好きになるのは、《通俗的因果律を片方に強固に持っている》ような人ではなく、むしろそれが常に揺らいでしまっているような不安定な人のはずです。リンチは(現代芸術は)、壷や骨董品じゃないんだから。あなたの意見は、ごく素朴な「人間観察」的な次元でズレていると思います。
(2)二点目。《そこら辺の言語を鍛えていない兄ちゃん姉ちゃんなんかがリンチを理解できる訳が無い》について。一体あなたは何の権利があって「そこら辺の言語を鍛えていない兄ちゃん姉ちゃん」を代表しているのですか。「そこら辺の言語を鍛えていない兄ちゃん姉ちゃん」たちから選挙で信任されたんですか。マーケティングの結果ですか。世間の常識ですか。誰が何を面白いと思うかなんか分からないじゃないですか。あの日の講演はまさに、こういう考え方に陥らないためにはどうすればよいのか、を巡るものでもあったと思います。フレームに捕われないというのはそういう意味でもあって、「そこら辺の言語を鍛えていない兄ちゃん姉ちゃんなんかがリンチを理解できる訳が無い」と思い込んでしまった(そういうフレームを前提としてしまった)瞬間に「負け」なんです。そこで既に、マーケティングや資本主義やネオリベや「日本」という強力なフレームに負けてるわけです。(勿論、結果として「理解されなかった」なんていうのはしょっちゅうなわけですが、そんなことで負けてたら芸術家なんてやってられません。実際、あの日の講演の言葉はあなたにはまったく「理解されていない」わけだし。)そんなのは「ゲイジュツカ」のたわごとだと思うのならば、それはそれで仕方ありませんが。
(3)三点目。《そういった経路無しに芸術が、それ自体で成り立つ、なんてことを無邪気に言ってしまう。そういう無邪気さがどういう上げ底で成り立っているか見ようとしていない。》あなたのイメージはかなり一方的です。どこかに、しっかりした自己と揺らがない自信とがっしりした経済的な基盤をもった強者である「インテリ人間」がいて、もう一方でそこから徹底的に疎外された「そこら辺の言語を鍛えていない兄ちゃん姉ちゃん」がいる、と。後者からみたら前者は何て無邪気で能天気なんだ、と。しかし、実際、芸術に興味をもち、それに関わって生きている人の多くは、経済的にめちゃくちゃ貧しいし、精神的にも不安定であやうく、きわきわで生きてるような人が多いですよ。ぼくも含めて。(必ずしも高度な教育を受けているわけでもないし。ぼくも含めて。)少なくとも「安定した基盤(常識)」が先にあって、その上に乗っかってはじめて「芸術(ズレ)」がはじまる、ということではないと思います。(勿論、「いい家」の生まれという人もなかにはいますけど。)これは理念とかではなく「現実」です。実際には、なけなしの現実のなかで、どうにかこうにか、きわきわでやってるわけです。だからこそ、リンチがリアルなのだと思います。
●あと、これは繰り返しになりますが、もう一点。
《いわゆる芸術家にありがちな『フレームから外れろ』的なクリシエでしかなく...》
あの場では二人とも決して「フレームから外れろ」なんて単純なアジテーションをしていないことは、普通に聞いていれば分かるはずです。あそこで言っていたことを端折って言纏めれば、(1)どうしてもフレームから外れてしまう人がいる(作品がある)、(2)そのような作品にどうしても惹かれてしまう私がいる(おそらくそれは私自身も否応無くフレームからズレてしまう部分があるからだろう)、(3)それは一体どういうことなのだろうか(どうしてそういうものをリアルだと感じるのだろうか)、(4)そういう事実を決して誤摩化すとなくちゃんと考えよう、ということです。ここでメッセージがあるとしたら、「フレームから外れろ」じゃなくて、「フレームは壊れる(確固たるものではない)」であり「その事実(フレームから外れてしまうこと)を誤摩化すな」という方にあるはずです。(これは単純に表現力、あるいは読解力の問題で、ぼくの言い方が悪かったのか、あなたの理解力に問題があるのか、どちらかです。)

 本来はリンクを張るのがいいのですが、トラバ、単独エントリーリンクが出来ないので、こちらに引用させてもらいました。古谷さん、ご寛恕下さい。
[rakuten:book:12312612:image][rakuten:book:12202132:image]だいにっほん、ろんちくおげれつ記

「若者を見殺しにする国」のレビュー

 気になったレビューをリンクします。これからの追々、レビューがアップされるでしょうが、僕なりにトレースします。
 ♪女子リベ  安原宏美--編集者のブログさんから、

80〜90年代をひきずっている人文系リベラル論者は基本的に「消費者」の視点から書かれていますが、赤木さんは「消費者の視点との労働者の視点」(両方からの搾取といってもいいです)をきちんと捉えているなあーと思いました。ーhttp://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10054223104.htmlよりー

EU労働法政策雑記帳さんから、

それまでの「左派」というのは、「固有性に対する差別」を問題にするのはブルジョア的であり、まさに「努力しても報われない弱者」働いても働いても貧しさから逃れられない労働者たちの権利を強化することこそが重要だと考えるような人々であったのです。リベラルじゃないオールド左翼ってのはそういうものだったのです。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_c3f3.htmlよりー

 ♪石猿日記の石井さんのコメント。
 ♪雨宮処凛がゆく!から、

「7日目が一番辛いんですよ。胃がひっついて。だけど7日目を過ぎると身体の脂肪を使い出すから楽になる」
http://www.magazine9.jp/karin/071107/071107.phpよりー

 ♪http://d.hatena.ne.jp/anhedonia/20071111/p4から、

全体の印象としては、意外と普通だった。その分だけ「戦争」という単語が必然性がなくて、みょうに浮いている。あと、斜に構えたサヨク批判の雰囲気は、今は無き『宝島30』あたりに近いかな。

 参照:http://sofusha.moe-nifty.com/blog/2007/11/post_9cdd.html
これからも追記します。