どこかが壊れている

 なんとも腹立たしい事件である『京都・宇治での塾講師、女子生徒刺殺』。同志社大学法学部四回生で犯罪学専攻らしい。03年6月に大学図書館で女子学生が椅子の上に置いた鞄から財布などを盗み、これを発見した警備員に怪我をさせたとして強盗致傷容疑で京都府警に逮捕されたと言う(毎日新聞12/10夕刊)。送検されなかったのであろうか、僕も一度、万引き犯を捉まえて、新聞報道では強盗罪容疑になったが、犯人が初犯、若者ということで将来を慮ったのか、結局、単純な窃盗罪になり、送検しなかった。説諭ということで一件落着したのか、その後のことはわからない。この強盗致傷容疑がどのような決着をみたのかわからぬが、この図書館は僕も利用していたので暗澹たる思いです。とてもゆったりとした図書館でOBも入館出来るのです。
 大昔でですが、書店員時代、毎日、私服ガードマンが万引き犯を捉まえましたが、上記のように僕が捉まえて強盗容疑になったのは例外中の例外で100%近く、何の抵抗もなく観念したもんです。居直りはだから珍しい。現行犯でしょう。おまけに昼間で回りにみんながいる。それで抗うなんて“どこかが壊れている”のでしょう。
 塾講師は生徒にとって又は父兄にとっても学校の先生のような存在でしょう。今日も自治会で「こども110番」の黄色い旗の話題が出ましたが、一方で子どもたちに挨拶運動を推進しながら見知らぬ大人に気をつけましょうでは、子ども達も戸惑います。報告では、ある独居老人宅に防犯の調査という名目で二人組みが勝手に上がりこんだらしい。ある子どもは笛を鳴らしたのに誰も来てくれなかった。まあ、両方とも大事に到らなかったのですが、西岸良平の昭和30年代コミュニティが半ば壊れている状況では、自治会でマニュアルを作っても上手く作動しないですね。
 誰も塾講師が刃物を用意して質の悪い犯罪を犯すとは想像出来ない、でも起きた。武田徹はオンライン日記で『限界の思考』の宮台真司が「まったり革命」では立ちゆかないと繰り返し述べている切実さを改めて思う。」とコメントしている。

つまり「社会の大半を占める壊れた人間たちを滞りなく管理するアーキテクチャーを、周到に設計する、ごく一握りの壊れていない人間たち」というビジョンを受け入れるしかなくなります。そうした方向への動きを―先進各国における警察行政の動きを踏まえたうえで―僕は「新しい警察国家」と呼びます。犯罪者取り締まりから、アーキテクチャー管理へのシフトですね。―『限界の思考』(287頁)―

 宮台真司は多くの社会成員は下で書いたような意味での「内在系」(まったり革命)の前提条件になる「アウラの喪失の忘却」(動物化)がもたらす相対性に耐えられず、成員が「動物化」する社会のなかで「人間が怪物として降臨する」事態を危惧しているのです。それがナショナルなものに動員されるのか、それともかような暗澹たる事件が症例として今後とも起こるのか?早急に僕たちの社会はいい知恵が要請されているのです。徹底的に考えようではありませんか?思考停止をストップして…。
 僕としては『戦後民主主義の虚妄の効用』を飽くなき提唱したい思いがあります。ベタに民主主義を信じるからこそでなく、ネタという認識のもと、「あえて」、主意主義で「戦後民主主義」を提唱するのです。
参照:http://laird.blog15.fc2.com/blog-entry-48.html
http://laird.blog15.fc2.com/blog-entry-49.html

限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学

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