「ルート181」in京都

 京都五条で映画『ルート181 パレスチナ〜イスラエル旅の断章』を休憩を挟んで五時間の映画を見ました。インタビュー主体のドキュメントでテレビの報道特集を見ているような感じでした。比較が適当でないかもしれないが、マイケル・ムーアのドキュメントはインタビューにしても悪意の感じられるものが多く、面白いんだけれど後味が悪い。森達也は『A』にしてもカメラを向けてもマイクをつきつけても、相手に対する公平さっていうか、でも少し情が先行する暖かさがある。マイケル・ムーア程、悪意でなく、森達也ほど善意でないっていうスタンスでしょうか、監督は二人による合作なのですが、どの部分がEyal Sivanか、Michel Khleifiかわかりませんでした。
この国には何もかもそろっている。ないものはない。でも生の歓びがない
 五時間の最後にさすがに疲れたのですが、チュニジアから移住してきたユダヤ人の夫婦のおばあさんがイスラエルでの半世紀の人生を語る言葉はイスラエルだけの問題でなく、アメリカにも日本にも投げかけられる問いでしょう。
http://palestine-heiwa.org/route181/
 ささやかな行為の積み重ねが巨悪を生むもそうでしょう。その時代、当事者として生きていて別段思考停止と括らなくとも、何でもないことと、世間の波長の中で暮らしていて後で振り返って罪を犯していたと言う結果としての歴史とは残酷のものです。僕は今この瞬間、暮らしの中で“ささやかな行為”をより大きなものによる価値判断で検証する術に慣れてはいない。だから、事が起った時、みっともないことはしたくない、とそれだけしか言えません。