献呈本

「国語力」観の変遷―戦後国語教育を通して

「国語力」観の変遷―戦後国語教育を通して

 著者献呈本なのですが、じっくり読ませてもらいます。
 ありがとうございます。★目次のhttp://www.keisui.co.jp/cgi/kensaku.cgi?isbn=ISBN4-87440-914-8です。
bk1書評をアップ

グローバルな大波に水没せんとする母語って何だ?
栗山光司 2006/03/28 10:30:00
 今日、小学校で英語必修化を求める報告を中教審でまとめたというニュースが飛び込んで来ました。08年度から実施らしいですが、「日本語としての国語」が国際化、多様化の波間に相対化され、「国語力」ってなんだろうと、その問いでさえ揺らぎ不分明にならざるを得ない状況がこれからも進むと思う。そのような困難な検証を現在の地点に立って戦後60年の「国語教科」をその内在性にも切り込んで「国語力」観の変遷をクロニクルに記述する作業は大切なことです。そのような要請の中でいかにもタイムリーな著作だと思う。
 現在、「生きる力」を子供達に身につけさせることが文部科学省の目標なんでしょう。立派なメッセージです。問題は「自己責任論」の行政の丸投げの匂いがしないでもないということだ。学ぶことへのやる気・意欲を引き出して、自分で考える力、自分で判断する力、自分を表現する力、問題を解決し、自分で道を切り開いていく力と、サバイバルな強さが要求されているという棘を感じる。チキンな子供は耐えきれないなあ、早々とこんなレースには非参加で暮らしたいと思ってもこの国に「生きる場所」が用意されているのか、先般、野宿者が子供達に殺されたが、野宿者であることによる「それでも生きていいんだ、ひょとして彼らの方がまっとうでないか、」という批評性を子供達に教えることが「生きる力」ではないかと、僕なんかは思うわけです。学習指導要領がそのような文脈を伏流して自立を目指す「生きる力」なら、年間三万人を越える自殺者数が減ることは間違いない。
 「生きる力」に対峙して「言葉」に向かうと「母語の問題」はさけて通れない。本書の「国語観」を僕はあくまで「母語の問題」として読み進んだのは単なる「国語教科」でなく、「言葉の問題」なら、いまだに悩みはつきないからです。敗戦、占領、そして、経済大国の道への国民合意の上での「国語力」が寄与し、そしてそのような合意が見えなくなり、ただ、他者の欲望を欲望することによる消費社会であっても母語としての「国語」は力を持ち得た。
 問題は今、グローバルの荒波にさらされ、弱者切り捨ての匂いがしないでもない、「国語を適切に表現し的確に理解する能力を育成し,伝え合う力を高めるとともに,思考力を伸ばし心情を豊かにし,言語感覚を磨き,言語文化に対する関心を深め,国語を尊重してその向上を図る態度を育てる。」という指導要領でのお題目「生きる力」、「伝え合う力」を学校という聖域の中で身につけさせるのは、可能かという疑念があります。
 それよりか、具体的に目標を設定する。僕の個人的な意見では義務教育の段階から「メディア・リテラシー」を国語の教科に取り入れる。「国語教科」において「批評性」を身に付かせる。そういう教育は目に見えるカリキュラムとして構築することは可能だと思う。
 この本は学術書という体裁をとっていますが、無味乾燥でなく読み手を熱い気持ちにさせる駆動力を持っている。ただ、残念なことに文字テキストがほとんどで、オーラルテキストが少ないということです。著者が直に「国語教科書」に携わった人々にインタビューするとか、<史の会>を参与観察した小熊英二の生徒、上野陽子による共著『<癒し>のナショナリズム』のようなアクセスの補助線が欲しいなあと、贅沢な望みを著者に持ったのです。
 しかし、本書は文字テキストを骨格にしながら奇妙なほどリアル感があるのは、国語高校教師として現場に長年携わりながら、文藝部の顧問として同人誌発行、ネットで公開と生徒とともに悪戦苦闘している経験からくる当事者として現場を参与観察した自らの実存が見え隠れするからかもしれない。