ギヴ・ミー・デモクラシー

オンライン書店ビーケーワン:「国語力」観の変遷チャーリーとチョコレート工場 [DVD]オンライン書店ビーケーワン:白いプラスティックのフォーク
 どうやら、片岡義男は幼少時代、僕がいまだに気になっている風景を見たらしい。いや、聴いたらしい、「ギヴ・ミー・チョコレート」は僕の記憶にもある。

 太平洋戦争に大敗戦したあとに日本にとって、占領アメリカ兵たちとともに日本へ入って来たハーシーの板チョコは、アメリカの象徴と言うよりもアメリカそのものだった。敗戦日本の街かどで、通りかかるアメリカ兵のジープを追って、「キヴ・ミー・チョコレート」と、日本の子供たちは叫んだという。ちゃんと構文になっている。当時の日本の子供たちに、こんなことが言えるわけはない。占領日本というものをめぐって、大人たちが創作したエピソードのひとつだ。あるいは、こう言えばアメリカの兵隊たちはチョコレートをくれるよと、大人たちが子供たちをけしかけたのだ。
 昭和二十五年頃だったかと思うが、僕が実際に聞いたのは、「チョコレート・ワン・サービス!」という叫び声だった。広島県呉市の駅に近い繁華街の一角に、洋画を上映するリッツという映画館があった。その前の歩道の縁に僕たち子供が何人か立っていたとき、オーストラリア兵のジープが通りかかった。五歳ほど年上の少年がそのジープを追っていき、「チョコレート・ワン・サービス!」と叫んだのだ。ー片岡義男著『白いプラスチックのフォーク』から「玩具として買うには面白い」よりー

 僕もオーストラリア兵士のジープを追った記憶がある。リッツという映画館も記憶にある。ただ、「チョコレート・ワン・サービス!」って聴いた記憶がないです。でも「ギヴ・ミー・チョコレート」っと言ったのかどうかは跡付けで再構成した記憶かもしれない、まあ、大概の記憶はそういうものですが…。ただ、これだけは鮮明に覚えている。年上の少年達が「パパ、ママ、ピカドンで、ハングリー、ハングリー」って叫んだのを…。そうやって、チョコレートやチューインガムをせしめたのを…。英語はそうやって、少年達の前にやってきた。「英語の力」は確かにハーシーの板チョコに乗ってやってきた。
 桝井英人著『「国語力」観の変遷』を読み出したら、そんなことを思い出した。
 1956年当時豊中市の教育長でもあった島田牛雅は朝鮮総督府で四年間、朝鮮の中・小学校の教科書をつくっていたのですが、敗戦時かような証言をしている。
≪「併し敗戦という厳粛な事実の前に、すべては徒労に終わった。忠良な皇国臣民であると誓詞を声高らかに唱えた人達が、終戦と同時に、私達日本人に背を向けた。あれ程国語教育の普及に成功していたに拘わらず、終戦詔勅がラジオに鳴りひびいた直後、最早朝鮮人には日本語の片言をも口にするものがなかった。それと同様私共が苦心してつくり上げた教科書が今はどうなっているだろうか。恐らく日本統治をのろう血祭りとして焼かれたり破られたり、ただの一冊も完全な姿で残っているものはないかもしれぬ。」≫と…『本書』(p41)
 著者は第一部「敗戦と試案の時代」の導入部に下記のような見取りを行っている、それは本書の通底奏でないかと想像する。

ここには、じぶんたちの仕事にたいする反省や抵抗の意識は感じられない。(略)/かれらに共通する意識の限界は、過去と現在のじぶんを矛盾なく解釈することにとどまって、最後まで他者の意識に立つことができなかったところにある。自己を否定するような他者をおりこんで、自己を再生するのではなく、あくまで過去は自己の一貫性の保持と矛盾しない範囲で受容される。/他者の意識に立つなどということが厳密な意味で可能だとは思われないが、しかし、それでも、少なくとも自己を否定する契機をふくむことは思想の核としてあるべきことではないか。たとえ純粋に教育的な営みだと信じておこなわれたとしても、自己が自己の範囲だと規定した領域内での「論理」から出ようとしないまま言語の教育がおこなわれつづけることが、どのような「うらぎり」をもたらすかをこの証言は示しているのではないか。自己否定をふくまないまま、過去との連続性、一貫性のうえに発展を志向する態度が、国語教育に潜んでいる可能性を否定することはできない。それは「反主流」の言説にも共有されている。/戦後、米国から民主主義精神を指導される立場に立たされたときにも、この態度は胸のうちに保たれることになるだろう。今度は国語教育が米国を「うらぎる」タイミングを待っていたかのように見えるのである。(p41、2)

 他者にリーチが届くギヴ・ミー・チョコレートでないと、いつか「うらぎる」、「うらぎられる」でしょうか。恐らく国語教育は英語であれ、韓国語であれ、中国語であれ、スワヒリ語であれ、フランス語であれ、何語であれ、日本語教育の問題ではなく、あらゆる言葉の国語教育の問題なのでしょう。デモクラシーが普遍性を持ちえるかは他者のリーチの幅だけで計量しているみたいですが、「多数決と言う名の合意」では弱い、自然法か、何か超越系のものが挿入されないと、「うらぎり」のリフレインは繰り返されるのではないか、自己否定の回路だけで他者を呼び込むことが果たして可能か、著者はそのような回路で他者に接続し国語教育を考えようとしているのでしょうか、これから、まだまだ、読んでみます。続く…、