吉田修一/ひなた水

オンライン書店ビーケーワン:ひなた
 僕は女性誌『JJ』を立ち読みも歯医者、床屋の待合室でも、読んだことがないのですが、吉田修一は『JJ』を発表舞台に一皮も二皮も剥けたのでしょうか。でも僕的にはパークライフを含めた以前の作品の方が大好きなのです。

この小説は、おずおずと、いつの間にか産まれ、巨大な何かに成長していた、別の「物語」が棲息する空間に、出かけたのです。それは少なくとも、閉じ込もるよりましなことだ、と作家は考えたのではないでしょうか。そして、そう考える作家は、いつもたいへん少ないのです。

 帯文に高橋源一郎が書いているが、なるほど、巧みな高橋さん流の言い方だなぁと納得するが、少なくともオヤジの僕により開かれた感じは過去の作品よりは窮屈になった。
 それはどうしてかというと、『パーク・ライフ』では他の作家を連想することはなくて、「新しい作家の誕生だなぁ」と少なからずショックを受け、僕の中に「吉田修一」は刻印されたのです。しかし、『長崎乱楽坂』では女性版中上健次の印象があったし、『東京湾景』はまさにトレンディドラマで、まあ、より世情に開かれた小説の作り手になり得ているなぁと、近い将来、大ベストセラーを書くかも知れないと、そんな予感もしますが、僕の中で『パーク・ライフ』で印象つけられた吉田修一像は壊れかけています。
 いまから思えば、『パーク・ライフ』は保坂和志のような世界があったともいえるのですが…。そして今回の『ひなた』です。読み始めてすぐに嶽本野ばらだぁと読み進んでしまった。しかし、別にそれがイヤだったわけではない。僕は嶽本野ばらが好きでもあるし、保坂和志中上健次も大好きで、この異質の作家が、もし吉田修一の中で同居しても違和感がない。むしろ吉田修一に対する興味が増幅するかもしれない。でも、なんかバラバラ感があるのです。発展途上と言えばいいのでしょうが、少なくとも妥協の産物で、色々とピースを当て嵌めたコラージュ作品と言えなくもない。『ひなた』は野ばらの『下妻物語』の別バージョンという読みを結果としてしてしまった僕は吉田修一の読者としては失格かもしれないが、本書に対して絶賛した僕の知人を思いやるとどうやら、吉田修一の背骨の通った押しつけのなさ、スカスカと紙一重の開かれた風通しの良さに知人は共振したものと思う。