エロスなバイアス

“フェミニン”の哲学
 うたかたの日々の「<フェミニン>の哲学」後藤浩子著を読んでソネさんはバタイユについて引用しているが僕も孫引用

「エロティシズム探求の途上でバタイユレヴィ=ストロースに出会い、一つの手掛かりを得たのだ」
「しかし、バタイユレヴィ=ストロースの「娘の交換」の展開の仕方にある不満を覚えた」
「人間のセクシュアリティとはこのような禁止の侵犯と性の横溢への欲望だが、バタイユは、このようなセクシュアリティこそ、「人間が物に換言されることに最大限抗っているもの」なのだと捉える。
禁止の侵犯と性の横溢によって人間は「動物」となる。こうして、人間は物の相と動物の相を行きつ戻りつする。
これがエロティシズムの構造なのである」

 勿論ここに言う「動物」はソネさんも書いているように交換に抗う「動物」であって、東浩紀の『動物化の動物』とは違う。*1先日から双風舎の『バックラッシュ!』にまつわる言説で僕の感性で常に違和感がつきまとって頭で理解出来ても身体でわからないということは、どうもこのあたりのエロティシズムに対する距離感だと思う。
 渋澤龍彦流に言うならば、「僕がモノになって進ぜよう」、「あんたは動物(女)になって人形(モノ)遊びをしてちょうだい!」、確かそんなことを奇書植島啓司の『分裂病者のダンスパーティ』の序文に書いていましたね、エロスとバイアスの関係って不即不離かもしれない、『バックラッシュ!』でバーバラ・ヒューストンは日本の「ジェンダーフリー」の表現としては“fredom from gender bias”と直裁に書いていますが、すごくわかりやすい。だから逆照射でバイアスを上で言う「動物の相」の文脈で当て嵌めると腑に落ちるところがある。
 風の旅人さんが日記で『……なぜ、「編集便り」を書くのか』で、バイアスを肯定的な文脈で書いています。そのことが「俺様系」というブログに映じようがそれはロム者のバイアスで、小なり大なり僕らはバイアスからfredomに成り得ない、勿論、具体的にgenderのバイアスを現場でこまめに運動として合理性をもってチェックすることは必要でしょう。だが、バイアスそのものは悪者ではない、この世からあらゆるバイアスがなくなることは僕たちは為替差益さえ必要のない全世界共通のマネーそのものとなるでしょう。
 バイアスを呼び出すおそれのある名前なんても必要がなくIDコード番号でも「可なり」の世界となる。そんでも僕はどこか心の片隅でそんな悪魔かどうかしらないけれど囁きに耳を傾けることがあります。先日も通院して看護士(婦)に冗談半分、本気半分、「IDチップを僕の身体に内蔵してもらって、医療に必要なデータ保存が瞬時に取り出せるようになれば、煩わしくなくて、いいよな、先日も救急車に乗ったがチップがあれば、作業かはかどる。通院するたんびに、やれ健康保険証とカードとチェックしたり、薬局屋さん、ほかにも財布の中はカードだらけで捜すのが面倒、うんざりする。医療だけでなく、合理的な個人情報をチップに保存したいよ、まあ、でもメールアドレスの公開はいやだなぁ…、スパムだけは我慢が出来ない」、
 確かに僕の中に徹底してモノになりたい部分がある。けれどそれの対称系としてモノになりたくない部分もある。大部分の人はそうでしょうが、僕だけのバイアス、そんなかけがえのないモノは「物の相と動物の相」を行きつつ戻りつつする中で瞬時に浮かびあがるものでしょう。『風の旅人』の編集方針はそんな編集長のバイアスに支えられているからこそ、面白いんだと思う。表層に閉じこもることをあえて拒否する。ある学者達がメッセージを発信しながら、ある閾でいきなり禁欲的になり、それが学者の振るまいだと言われると困惑する、だったら最初から禁欲的になれよと言いたい。
 参照:コメント欄でmacskaさんがバイアス/biasの違いについてカキコしてくれましたが、「風の旅人」さんのように僕も多分にその気があるのですが、良い悪いでなく、その人のアイデンティティの皺と言うか、その人の表情の骨になるものが、どうやら僕の理解するバイアスになるみたいですね、偏見、誤読を往々にしてやってしまうけれど、その凸凹を愛でたいという偏執があるわけですよ、http://diary.jp.aol.com/mywny3frv/164.html