不確実性を生きる

脳と創造性 「この私」というクオリアへ新しいデカルト岡本太郎の本〈1〉呪術誕生
 紅葉の季節なのに、時間のねじを逆回しして、八月八日の夏休みに飛びました。茂木健一郎さんの、高知市夏季大学の講演が音声アップ(90分)されていましたね、部屋の掃除をしながら聴いてしまいました。
 「脳と創造性」、「ギャップイヤー」について、「偶有性」、「不確実性を愉しむ」、「安全基地」の大事さ、「いける」ということは知識ではなく感情であり、感情こそ、ドアを開ける強い力を持ちうる。それは直感力であり、「美しい欲望を持つ」ことが不安に苛まれていることから、脱出出来る。そんな強いものでもなく、大文字でもなく、大きな物語でもなく、ささやかなものでもいい、自分にとって大切なもの、一冊の本でもいい、猫でも犬でもいい、そんなアタッチメント(愛着)があれば、そのような不確実性があっても愉しむことが出来る。肩書きではないのです。
http://www.qualia.csl.sony.co.jp/person/kenmogi/lectures/mogikochi20060807.MP3
 上の茂木さんの講演と下の風の旅人さんのブログエントリー「人間とコンピュータ」とほとんど同時に聴いて読んだのですが、シンクロニシティーを感じたので、こんなカキコをしてしまいました。その下のオリオンさんの追記に紹介した記事『ロボットに「情念」をもたせるというデカルト省察』もおもしろい。

 茂木さんの講演で、冒頭、アメリカのある協会で、「会話の出来るロボット」の発明を毎年公募しているとの紹介があったのですが、いまだに実現していない、(そりゃあそうでしょう。
 人間の創造性は他者との「会話」の部分で、日ごと、みなさん(多分、この市民大学に出席している人たちは僕とほとんど同年配ぐらいのオヤジ、オバサンたちでしょう。)実現しているのですよ、ムツカシイことではない、でも、ロボットにはそれが出来ないのです。その違いが大きい、そこに創造性の歓び、驚きがある。誰かと喋っていて、時間の経つのを忘れる、そんな刻を過ごした経験は誰だってあるでしょう。
 でも、今だにコンピュータ(ロボット)にはムリなのです。悩める鉄腕アトムは誕生していないのです。
 いつか、そうなるでしょうか、そうならないとも限らない、キモは「感情」なのでしょう。生成する感情が個々の人間の拠り所なのなら、もっと、もっと、このことについて考えたいですね、
 考えるというより、感じることでしょうが、茂木さんがこの講演で、岡本太郎が乾杯をしたときに、
「これを飲んだら死ぬと思え! 乾杯」とやらかした有名なエピソードを紹介していましたが、ロボット(コンピュータ)は死と対峙しない回路でシステムを構築しているのでしょうね、もし、会話の出来るロボットを発明するとしたら、「死」と接続する回路が絶対必要なものだと思ってしまう。それが出来得たら「会話の出来るロボット」が誕生出来、直感力も生まれ、羽生さんと共感できる将棋を指すことがあり得る、でも、夢物語ですね、(笑)。
ほとんど、100%近い確率で「会話の出来るロボット」は、無理でしょうね。

 でも、確率ゼロは、何にも起こらないことではなく、起こるのです。無限にも無数の無限がある。ということを茂木さんは「脳と数学」という東京学芸大学の講演で喋っていましたね。
 こちらもクオリア日記の音声ファイルです。http://www.qualia.csl.sony.co.jp/person/kenmogi/lectures/brainmaths20060729.MP3
参照:人間とコンピュータ - 風の旅人 編集便り 〜放浪のすすめ〜
追記:オリオンさんが、『ロボットに「情念」を持たせるということ』の記事をアップしている。う〜ん…。ロボットにも情念をもたせうるということ──デカルト的雑想(1) - 不連続な読書日記
続きです→究極の心身問題──デカルト的雑想(2) - 不連続な読書日記