女子なら許される「なんとなく家事手伝い」身分

 毎日新聞の本日の日曜版社説『時代の風・ネットカフェ難民』斎藤環さんが執筆していますが、先日、ミクシィでやりとりした内容に重なるので、表に書いてみます。

 「家出」を自立の必要条件とする欧米型社会では、ドロップアウトした若者はホームレスか犯罪者になるほかはない。しかし、日本や韓国のような儒教文化圏では、親孝行をはじめとする家族主義がいまだに根強い。そこでは密着した母子家庭を中心として家族が構成されるため、両親は我が子がひきこもろうとニートになろうと、けっして見捨てようとはしないのだ。
 不適応が「ひきこもり」という形態をとりやすいのはこのためだが、それは盾の片面に過ぎない。社会に居場所のない若者たちを、多くの家族が支え続けてくれたおかげで、この社会がどれほど福祉と治安にかけるコストを節約できたことか。「日本の家族」は、若者たちの巨大なセーフティーネットでもあったのだ。そう、少なくともこれまでは。ー斎藤環「時代の風」から『愛や契約よりも「家族」を』よりー

 先月、亡くなったカート・ヴォネガットの小説『スラップスティック』の中で提案した概念「拡大家族」(すべての人々が自由に選択できるミドルネームを登録し、同じミドルネームを共有するものどうしを人工的な身内とみなすことで、孤立した人々を救おうという試み)を紹介する。ヴォネガットの作品は、その底流に「愛は負けても親切は勝つ」という思想があったとされる。

 いまや、いたるところに「愛」と「契約」が満ちている。関係から距離を奪う愛と、関係を固定する契約が。それらはほぼ全面的に許されている。愛と契約の双方に失敗した敗者には、もはや「家族」という居場所すらも許されていないかにみえる。
 ヴォネガットは、おそらくこの状況を予見していた。彼は繰り返し世界の破滅を予言し、愛も契約も信じなかった。この希代のニヒリストが、愛でも契約でもない「家族」の価値を強調せずにはいられなかったという事実は軽くない。だから私たちは、あらためてこう問うべきなのだ。家族であることーーこれが素晴らしくないとしたら、いったい何が?と。

 実感としてもひしひしと腑に落ちる。ミクシィのやりとりで、僕の知り合いの「引きこもり」、いわゆる「ニート」について話したのですが、○○さんが、中学生の息子さんが友達と使っている、「引きこもり」、「ニート」の定義についてコメントしてくれて、そうか、僕の知っている「引きこもり」は、外に出ないけれど、掃除洗濯もするし、健康に気をつけて部屋で腕立て伏せもする。PCを使って家族のために安い買い物もしてあげる。
 息子が気を使っているのが、両親にもひしひしと伝わる。「飼い主」と「ペット」の関係に似ていなくもないが、ペットとしての側面で両親を癒してくれし、ペットと違ってちゃんと、家事手伝いをしてくれる。第一、一緒に食事をするから、殆どカネもかからない。本人が社会に出る意欲がないから、社会投資のカネもかからない。
 だから現時点では問題はないのです。問題は飼い主としての両親がいなくなったとき、新たに飼い主を捜すか、どうするかでしょう。
 「主夫専業」として社会的に活動している女の人?が、「愛より親切」のモードで彼を受け入れ結婚するということになれば、ヴォネガットも草葉の陰から賛同してくれると思う。
 かって、赤木智弘さんが、「現代の貧困」問題の前にその前段として、いわゆる勝ち組女×いわゆる負け組男の「組合せ」を提唱して「お嫁さん募集」をしましたが、これは「愛による結婚」、「契約による結婚」ではなく「親切による結婚」でしょうね。

 うちの中3の男の子は、「家事をやる人はニートではない」と考えています。ひとの役に立つ仕事をしているからです。
 また、家事をやる人は引きこもりではないと考えています。なぜなら、身体活動性が高いからです。
 彼が考えるニートは、「ずっと自分の部屋にいて、PCを見ていて、自分の食事や洗濯を家族にやってもらっており、賃労働も、学習活動もしていない人」のことのようで、引きこもりは、部屋から出る頻度がさらに低い人のことのようです。
 ニートってそういうことでついた名前じゃないんだよってって何度も話したんですけど、彼の仲間たちの間ではよく「ニート」が話題にのぼり、今や軽い蔑称みたいになっているので、「これは俺たちが好きなようにゆがめているかもしれないけど、俺たちにとってはそれがニートなんだよ」みたいなことを申します。
 それぞれに「ニート」のイメージが少しずつ違うので、よくそういう話もするようです。でも一致するのは、やっぱりニートは道義的に劣った人と捉えているらしいこと。そして、その理由として「家事をやらない」「身の回りの世話をひとにやらせている」が含まれる場合も、あるようなんですね。
 うちの子の定義(自注:僕の知り合いの例)では、ニートにも、ひきこもりにもならないのです。女子なら許される「なんとなく家事手伝い」身分にあたるわけでしょうか。

 僕はこの【女子なら許される「なんとなく家事手伝い」身分 】にシンクロしたのですが、男の子だからこそ、生き辛さを感じることはあるでしょうね、最近、自殺者数が三万人を越えて新聞のヘッドラインニュースになっていましたが、女の人は9千人ぐらいで、後は男でしょう。まあ、男社会でまだある、ということの合わせ鏡になってはいるんでしょうが…。

 それにしてもそのごきょうだい、本当にお家が居心地がいいんでしょうね…。
 ひきこもりが問題になり始めたころ、住宅環境が良すぎるのがいけない、子ども部屋をなくせばいいとか言う人もいました。
 兎小屋なのに…と思いましたが、確かに、子ども部屋はちゃんとしてやらなくちゃいけないと考える人、多いです。親がちょっと不自由しても、です。自分の子ども時代の部屋に不満があったからでしょうか。

 女の子はお母さんのペットになっても、あまり非難されないが、男の子がそうやってたらすごく世間が狭くなっちゃう、やっぱり男の方が、まだ縛りが強そうのは事実でしょう。「男の文化」、「女の文化」をもう一度ちゃんと検証すべきでしょう。
 yamazakuraさんからの孫引用ですが、小林よしのりさんは、そんなおとなしい若者に苛立ているらしいけれど、親世代の財で、何とか爆発を防いでいる面がありますよね、でも、そんな余裕が親世代になくなりつつある。だから、「自立」、「自己責任」の声が大きくなっているのでしょうが、
 斎藤さん、ヴォネガットの言う「家族」が段々と防波堤にならなくなって行けば、小林さんが心配しなくても、若者たちは行動を起こすでしょう。
論座 2007年 07月号 [雑誌]