…、そしてエコフェミ

前のエントリー、コメントからの続きです。(筆者注:濁点は太文字にしています)

 だがエコロジカル・フェミニズムの最も良質な部分を蘇らせるとしたら、間違いなく経済に手をつける、すなわち働き方も含め「家」という存在をいじる必要がある。「公」と対立する(あるいは対立させられた)「私」としての「身体」や「家」や「自然」。その概念・思想をおそらく経済概念と働き方を変える方向に向かわせ深化させること。それこそ「俺は家族のために働いている」という言葉が成立しない方向へ向かうこと。ー『オルタナ 7・8月号』p42よりー

栗田隆子は本稿の『エコロジカル・フェミニズム再考』でいわゆるエコフェミの実践的な次の一手を模索しているわけです。

結婚して/親になって/子どもの将来/どんな世界になってるのか不安になり/「とりあえず環境を守らなきゃ」/エコに目覚める人は多い
/一人暮らしで/フリーターで/どこにも/属していない/自分が/不安になり/「「少なくとも地球家族!」/エコに目覚める人も多い/(秋川りす『OL進化論』『モーニング』講談社、2008年6月26日号)
 「母」も「独身」も消費社会/市場経済に巻き込まれたエコロジーにはまっていく。それは必ずしも一括りにはできないだろう。しかし、寄る辺ない不安から「地球」という枠に身を委ねていくような感覚も、ある意味、実に危険なものではないか。
 「家」的な概念が近代的な核家族の「マイホーム」か、巨大ゆえに空疎な「地球家族」しかイメージが浮かばないというそのことこそ、まさに関係の貧弱さを物語っている。エコロジーという言葉が生物学では表現できない概念を伝えようとしたように、私たちは「家」という言葉そのものを変えていく必要があるのかもしれない。新しい関係性を作ることは、同時に新しい言葉を必要とし、そこで初めて思想と実践が分かちがたく結びつくのだろう。人間同士だけではない関係を含めて。
 私の言いたいことはシンプルだ。消費中心の考え方、それを形づくる市場主義に距離を置ける関係を作ること。身体や命を利用するべきものではなく、あるものとして経済を促えること。またそこには、ジェンダーの視点が不可欠ということも。(p43)

臓器移植の問題など生命倫理学にもつながると思うが、栗田さんの向かう先はあまりにも困難な道で、「政治」の手に余る「文学の問題」だと言えなくはない。「新しい言葉を産み落とす」ことは出来るかもしれない。そのような出産なら男の僕でもできるわけで、そのようなカタチのない無数の出産を重ねて「世界は揺れ動く」ものだと思う。
 60兆個の細胞が関係性というランダムさでまぐわえば、あまりにも豊壌で溢れ出る世界がうごめく。ポニョ♪