西洋骨董洋菓子店

 宇野常寛著『ゼロ年代の想像力』で言及されていたよしながふみの『西洋骨董洋菓子店』を読みました。図書館にあったのです。地元の市立中央図書館はコミックの棚が充実しているのです。
 下に引用した吉田秋生の『長くゆるやかな流れ』も山岸涼子の『日出処の天子』も全巻そろっていました。だけど、吉田秋生山岸涼子はパスしてよしながふみを借りました。宇野さんの「第九章 解体者としてのよしながふみ」の論考は素晴らしいものでした。

 彼ら四人とその周辺をふくむ登場人物のつながりは非常にゆるやかで、いかなる言葉でも形容しがたい。友人というわけでもないし、単なる仕事仲間とも違う。その空間においては、相手を「所有」する恋愛関係はむしろ回避される。過去のトラウマを涙を流しながら告白する、なんてシーンは当然存在しないが、彼らはこのゆるやかなつながりによって確実に支えられ、豊かな日常を築いてゆき、やがて物語は彼らがいずれゆっくりと散開していくことを暗示して静に終わりを告げていく。
 この物語は明確な「主役」が存在しない群像劇の体裁が取られている。あるときは橘が、あるときは小野が、またあるときは別の登場人物がそのエピソードの主体的自己として機能する。これによって本作は「私」と「世界」が対峙し、そのひずみを埋めるために「誰か」を所有するという回路を徹底的に回避してゆくのだ。(中略)
 よしながふみが決定的だったのは、吉田秋生ほか、多くの作家たちがどうしても捨て切れなかった「所有」の正当性を放棄し、まったく別の成熟モデルを模索しているからだ。
 「あなたにさえわかってもらえば、それでいい」とこの複雑な世界の中から単純な答えを導き出そうとした瞬間、人は「厩戸皇子の呪縛」に囚われてしまう。だがその呪縛はゼロ年代の今、ゆっくりと、だが確実に群像劇へと「分解」されることでようやく解かれはじめているのだ。ー宇野常寛著『ゼロ年代の想像力』p194よりー

西洋骨董洋菓子店 (1) (ウィングス・コミックス)

西洋骨董洋菓子店 (1) (ウィングス・コミックス)