貧乏でも安心、女性で安心
- 出版社/メーカー: マクザム
- 発売日: 2008/09/26
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何かシルクロード隊に事故があって、兄貴が死ぬことのような事態があっても、弟夫婦が家を守ることが出来るわけです。
子供も沢山いるみたいですが、兄貴の、弟の子供なんてちっちゃな自意識はない。あくまで家族の一員としての子供なんでしょう。
とても、合理的な家族システムだなぁとナットクしました。
大体、近代の一夫一婦制は別段、自明性のある普遍性を持つシステムではなくて、何となく歴史的に淘汰され、最適化のモードで受け入れられ、戸籍法などで、法制度化によって強化されたにすぎないものでしょう。
ぴぴさんが、内モンゴルを舞台にした『トゥヤーの結婚』についてレビューを書いているが、この映画は「女の問題」、「貧困」、「家族制度」と、『フリターズフリーNO2』に取り上げられ、立ち上がった「女性と貧困ネットワーク」の栗田隆子さんのリード文(p55)で、キャッチコピーされている「貧乏でも安心、女性で安心」というオルタナな社会システムを構築しようとする実験精神と共振するものがある。
それは、単に<反貧困>ではなくて、貧困から脱出することによって、誰かを貧困に陥れる搾取構造に於ける「椅子取りゲーム」に参加する結果としての<反貧困>運動ではなくて、「貧困」という言葉そのものを死語に追いやる運動だろうと思う。当然、そこで、<反貧困>という言葉も死ぬ。目指すは「非貧困」と言ってもいいのではないか。
さらなる特徴は「貧乏」という言葉を前面に打ち出したことだ。呼びかけ人の一人が「女性の集まりだとどうして(反)貧困にならないのかしら」と話したことが印象的だ。経済の貧困と関係の貧困に対しては「反」(アンチ)と言わなければならないものの、このような社会のなかで、数少ない椅子を巡った椅子取りゲームの勝利者を目指すのかという疑問は常にある。椅子を分け合うこと、椅子を作り出すこと、それは決して「貧困」ではないにしても、利益優先の作業ではないためどうしても「貧乏」のテイストは漂う。お金の要らない生活。それは決して「貧困」ではない、明るい「貧乏」の味わいを目指している部分があると思う。(『フリーターズフリーNO2』栗田隆子p56)
兄弟婚にしろ、トゥヤーが身体不自由の旦那がいるにもかかわらず、旦那と同居を条件に再婚するトゥヤーの決断にはとても考えさせるものがありました。そんでも、いいではないか、ひとりであっても、共にいても、家にいても、外にいても、「生きられる」様々なコンセントが用意されている社会が豊かなんでしょう。そんな社会のインフラがあれば、「貧乏」は死語になる。