労働にとって「女性」とは何か(1)

フリーターズフリー vol.2 (2)

フリーターズフリー vol.2 (2)

昨夜、ジュンク堂大阪本店の三階喫茶室で『フリーターズフリー vol.02』の出版記念も兼ねて『労働にとって「女性」とは何かー家族・性・労働をめぐって』というテーマでトークセッションがありました。大阪天満橋にある「エル・ライブラリーに時たまお邪魔することもあるので、かようなテーマに関心を持ったのでしょうか。
最初に生田武志さんがかような問題意識を持ったテキストが少ない。文献渉猟に苦労したという話がありました。それを受けて非常勤で働いている当事者でもある「女性と貧困ネットワーク」の呼びかけ人でもある栗田隆子さんが、予想外に明るくユーモアたっぷりに「暗いテーマ」なのに理路整然と話を展開してくれたのには感心しました。
何故、彼女が「フリーターズフリー」の連載で『“ないものとされたもの”これくしょん』を書きつづけているのか見えた気がしました。
「女性労働」が(1)キャリア労働、(2)主婦(アンペイドワーク)に落とし込んで、「見えないもの」にされていたことは事実だったと思う。栗田さんが、去年の年末から今年にかけて「派遣村」の報道がなされたけれど、何故か、男性ばかりで女性の姿がなかったと言っていたが、実際のところ一割の女性がいたらしい。
金融危機で、非正規雇用が切り捨てられ、路上に投げ出された労働の軋みが表に浮き上がったのですが、(1)からも(2)からもはみ出てむしろ、DVなどで「家」に戻るよりは、勿論、キャリアもなく疎外感を持って「会社」で働くよりは「公園」の方がましだと言ってしまう女性達がいることも事実でしょう。(路上生活者の男は正社員になることがあがりだみたいなものを持っているのが多数)
そこまで、降りたって村上潔(「主婦」の「労働をめぐる思想と運動についての研究者)共々労働問題を考えいるんだと、『フリーターズフリー』の労働観に僕はとても共振しました。
生田さんは三号の編集方針として、労働を「動物」(ペット)からという視点でも考えて見るなんておっしゃっていたが、直接労働に結びつかないものでも「無用の効」と言うか、そんな「働かないことで働く」みたいな労働ってあると思うのです。僕は昔からこういう事を良く言って、時には冷笑されてしまうのですが、でも、意外と大事だと思います。ギスギスした職場の緩衝剤としての労働ですかね。
実際、僕はある職場でそのような役割を担わされたこともありましたから、あながち人事評価の対象にならなくはない。ただ、数値化できないわけです。
この日記の過去にも書いたことがあるけれど、ある考古学者がエジプトで発掘作業をやるとき、近在の村の長に仕事を頼むのですが、作業手順はすべて村長に任せる。そうすると村長は男、女、子どもたち総出で発掘作業の段取りをするわけ。見ていると、成人の男でまるっきり作業をしないで、一日中歌を唄っているヤツがいる。
考古学者は「あいつサボってやがる」と腹立たしい思いを持ったが、村人たちは平気のへいざ。
でも、暫く経過観察すると、結果として見事な作業手順だとナットクできる。
一日中歌を唄うことで若者は間接的に労働に貢献しているわけです。「働かないことで働く」
でも、この「働かないで働く」が必要以上に見返りがあると言うこともあるかもしれない。マネーゲームしかり、スポーツ、芸能しかり。
「額に汗して働く」人に対して、負い目まで要請はしないけれど、
リスペクトは忘れないで欲しい。「働かないで働く」ことが天下を取った気分になられると困るわけです。そう黒沢明の「七人の侍」の侍にしたところで、そんな疚しさがあったじゃあないですか。
>>このレポ続きます。