脱「関係性の貧困」

マイミクさんから教わったのですが、永瀬ユキさんが、先日のJUNKU大阪トークセッションの記事をアップしている。
http://www.n-yuki.net/blog.php?itemid=344
僕がいた本屋では、会社更生法が適用され、上部団体に属さない組合を立ち上げたのですが、確か2代目の執行委員長に僕より年下の20代の女の子が就任しました。彼女の下で結構まとまりました。高田馬場の民間のアパートを借りてそこを組合事務所として、活動したのですが、みるみる待遇が改善されましたね。更生法適用の会社なのに、賃金がアップし、それに比例して売上げもアップしたのです。小売業だから日銭が入るでしょう。
取次、問屋、債権者もナットクするしかなかったのです。まあ、時代も良かったのでしょう。予想より早く更生法の適用が解除されました。

職場に既に労働組合があり、男性ばっかりで、男性中心主義が染み付いている場合、女性の問題がなかなか机上に上がらない。男性の労働運動家から「女性も闘え」と言われたって、闘えない、それができない状況にさせられている人だっている。

永瀬さんの記事を読んでそのことを思い出しました。むしろ、女の方が元気で過激でもあったw。原宿通りをデモ行進したなぁ。本社が原宿だったからねぇ。だけど、それは30年以上前の話です。
ところで、トークセッションで感じたことなんだけど、未婚/既婚を問わず、結局、死ぬ時はひとりだし、「ひとりになっても生きていける社会」を社会モデルとして『フリーターズフリー』の同人たちは、構想しているんだと思いました。
上野千鶴子が『おひとりさまの老後』で去年の春、JUNKU大阪トークをしましたが、僕の視点は「若者を見殺しにする国」は、「老人を見殺しにする国」でもあろう。生産点、消費点でないもっと広い視界で「働くこと」、「生きること」を考えたい。ということなんです。
去年から老母はディサービスを週一受けるようになったのですが、今更ながらひとり暮らしの年寄りが多いのには驚きました。近くに息子夫婦がいてもお互いのナットクづくなのか、別居生活が多い。別に手元にデータがあるわけではないが、本音のところ、「ひとりになっても生きていける社会」を望んでいるのではなく、大家族で生活したいという夢物語はあるのだけれど、互いの生活習慣まで、放擲もしくは妥協してまで一緒に暮らしたくないというのがあるのだと思う。自分の生活まで犠牲にして年寄りの生活を全面的に肯定してくれるのは難しいでしょう。結局、大きな流れは「ひとりになっても生きていける社会構築」になってしまうのではないか。
最早<家族>に落とし込んで<国家><企業><地域>の福利厚生の劣化を糊塗することは難しいのではないか。
例え、遺産があったところで、一緒に暮らしていける保証にもならない。こんな事例がありましたよ。
あるひとり暮らしの老女が買い物も思うように行かない状況であったのですが、近所の奥さんが色々と面倒を見た。そんな状態だったので、赤の他人であったけれど、「私が死んだら、あなたに○千万円あげる」と遺言を残した。老女が亡くなって近所の奥さんにお金が渡った。だけど、親類縁者がどうしてもナットクできないわけです。裁判沙汰にまでなんなかったけれど、似たような事例があると思う。
老女は「お金持ちより人持ち」のありがたみを実感したのだと思うけれど、システムとして、「ひとりになっても生きていける社会」を構築するなら、相続税率を思いきって上げるかして、そのような老女の資産が「ひとりになっても生きていける」資源になるような社会的回路になればいいのではないかと思いました。相続税で徴収したぶんは、年金、介護、医療に最優先で回すとなれば、ナットクしてもらえるのではないか。まあ、消費税のアップ分は教育に最優先するとして。

生田武志の言う<家族>のオルタナとしてのNFO(ノン・ファミリー・オーガニゼーション)はそう言うものではないか、そこにお金が回るシステムがあってもいいかなぁと思いました。僕がささやかに出来ることは<関係性の貧困>の溶解しかない。
>>この項続く