「想像力」がリスペクトされるベーシックインカム社会

風の旅人 (Vol.18(2006))風の旅人 (Vol.13(2005))ワーニャ伯父さん/三人姉妹 (光文社古典新訳文庫)[オーディオブックCD] 夏目漱石 著 「吾輩は猫である」(CD20枚)
マイミクさんがミクシィで隔月誌『風の旅人』に掲載された保坂和志のエッセイに触れているのですが、何号だったか忘れたとある。
ちょいと気になって本棚に残っている『風の旅人』のバックナンバー(色んな人にあげているので欠本になっているのです。)を調べたら、
マイミクさんが指摘した号ではないとは思うけれど、13号、18号のエッセイの2篇はマイミクさんの関心どころと通底するのではないかと思い一部を引用してみます。

 つまり、現代の人間に必要なことは、カネのサイクルの中で成功することではなく、カネのサイクルの外に出ることなのだ。これができるのは皮肉ではあるが金持ちだけだ。貧乏人でも離島で暮らすなり何なり、カネのサイクルの外に出る道はいろいろあるけれど、一人でひっそりそうするだけだ。金持ちだったら、周囲への訴えかけとしてカネのサイクルの外に立つことができる。
 「カネのサイクルの外に立つ!」
 金持ち・土地持ちのみなさんは、ぜひこれを人生最上の価値観として生きてほしい。私は金持ちではないが、カネのサイクルの外に立つ道を日々模索している。これこそが二十一世紀の人間の形而上学なのだ。ー『風の旅人 18号』p145よりー

「カネのサイクルの外に立つ道」かぁ。このエッセイの冒頭で保坂は漱石の『吾輩は猫である』で迷亭のこんな言葉を紹介している。
「昔のギリシャ人は非常に体育を重んじたものであらゆる競技に貴重なる懸賞を出して百万奨励の策を講じたものだ。然るに不思議な事には学者の知識に対してのみは何等の褒美も与えたと云う記録がなかったので、今日まで実は大に怪しんでいたところさ。」
知識・教養は「懸賞のサイクルの外に立っていた」ということでしょう。

 しかし、漱石が小説を書きはじめた二十一世紀初頭になると、すでに知識・教養の価値が危うくなっていた。そうでなければ迷亭がこんなことをわざわざ言うわけがない。
 そしてさらに迷亭から百年経った現在、私たちはいよいよ、知識・教養よりも「黄白青銭」つまりカネが価値を持つ社会に生きることを余儀なくされている。かく言う私だって、芥川賞だの何賞だのの褒美をもらうときに、それと一緒に賞金をもらうことが当然だと思っている……。(p145)

先に18号を紹介して『風の旅人13号』と逆順になっていますが、こちらは冒頭でチェーオフの『ワーニャ伯父さん』の台詞を紹介する。
「百年、二百年あとから、この世に生まれてくる人たちは、今こうして、せっせと開拓の仕事をしているわれわれのことを、ありがたいと思ってくれるだろうか。」
保坂はこのエッセイで「想像力の危機」について書いているのです。

異常な勤務管理をはじめた会社は、想像力や創造性を必要としない業種なのかもしれない。しかし過度の数値化によって個人の内面の休閉地を根こそぎにする思考法は、他者に対する敬意の全体を殺すことになる。
 文化とか教養というのははっきりした形のないもので脆い。こんな勤務管理によって業績が上がったりしたら、後追いをする会社が次々に出てきかねない。こういう一面的な論理の前では文化とか教養はどうしようもない。
 しかし、確かに文化とか教養は一面では形がなくて脆いのだが、それらは本当は実体があり、表面的に考えるほど脆くもない。数字によってしか価値や効果を測定できない思考法に向かってそのことを証明するのは難しいけれど、その強さは例えば社会が危機に陥ったときに証明される。文化や教養がしっかりと定着している社会は復元力あるけれど、それをないがしろにしてきた社会はぼろぼろと崩れていく。
 ないがしろにしてきた社会では、まず回復するための選択肢が出てこない。それから、個人が守られているという意識がないから、一人一人が疲弊していて回復させるためのエネルギーが涌いてこない。そういう復元力こそを実体と呼ばずに何と呼ぶのか。数字は現象のごく一部を撫でているにすぎない。
 なんだか結局、二つバラバラの話が書かれているようにしか見えないかもしれないが、チェーオフが「百年」という言葉で言いたかったことは、何よりも、想像することに対する絶対的な敬意だったのではないかと思うのだ。「百年前」も「百年後」も技術の力によって映像化されてしまう時代の中で、想像することの必要性が薄れ、想像するということが危機に曝されている。しかし、想像力がなければ世界に対する信頼は生まれてこないのだ。ー『風の旅人 18号』p103よりー

 かような知識・教養、「想像力」を欲しがらない代償に与えられるものが月5万円としたら、東京永久観光さんが、東浩紀たちのニコニコ動画を聴いて、「魂を5万円で売る」というレポ記事をアップしているが、確かに《金銭が支配するベーシックインカム社会では、/動物たちは5万円で、金持ちはますます億万長者。》う〜ん、いやあ〜な感じ。
《しかし、もし、たとえば/芸術やスポーツや学問が支配するような/ベーシックインカム社会が実現したなら》
5万円でも受け入れちゃうかもしれない。リスペクトがそこにあるから。僕の美意識と言ってもいい。少なくともエロスのリンクはあるねぇ。