『1Q84』年のリブロ?

「今泉棚」とリブロの時代―出版人に聞く〈1〉 (出版人に聞く 1)1Q84 1-3巻セット
 今泉さんの『「今泉棚」とリブロの時代』を読み終わりました。
 最後に彼が言っておきたいことを引用します。

 今になってはっきり見えてきたけれど、私がリブロにいた時期こそは本当に奇妙な時代だったのかもしれない。
 バブルの時代だと片づけることは簡単ですが、それがリブロの時代であったと考えると、文化の享受の条件がバブル的富の出現とそのバタイユ的蕩尽とセットになって出現したのは明らかですね。少なくとも清貧の思想なんか関係ないと思います。
 ひょっとするとあの時代は戦後に蓄積されてきた様々な過剰性が社会の全面に露出してしまった時期だったのかもしれない。
 あるロックミュージシャンが六○年代後半になると、あふれんばかりにメロディと歌詞が押し寄せてきて、いくらでも曲が作れた。それは自分だけでなくて、周囲の連中も同じだったと語っていたのを聞いたことがありますが、そのような時代はあるものだと思う。
 私が池袋リブロで、もはや覚えていないほどのフェアやイベントを次々とできたのも、それまでに戦後の出版物の蓄積があり、また同時代に現代思想を始めとする様々な人文書が出版されたからです。
 それに堤清二と小川道明の文化路線が結びつき、池袋という舞台が提供されて実現した。これは「大いなる連鎖」ではなく、「小さな連鎖」にすぎないにしても、日本ではそれまで実現できなかった試みだったかもしれませんね。たとえそれが試行錯誤の歴史で、最後には消滅してしまう運命をたどってしまっても。
 確かに実体としては消滅してしまったが、「小さな連鎖」は続いて、それがまたそこかに見出されるかもしれないと思うようになりました。(p162,3)

「その小さな連鎖」がどういう顕れとなって出現するのかなんとも予測し難いが蓄積と蕩尽の連鎖は一対のものとして、訪れるのかもしれない。
今はスッカラカンになって新しいパラダイムの蓄積の時なのかもしれない。村上春樹の『1Q84』は今泉の言う奇妙な時代だったかもしれない。
月が二つ出ても不思議でない時代だったかもしれない。バタイユ的蕩尽には過剰な月が相応しい。
だけど、今や「1984」の月が一つどころか、ひょっとして、一つの月も危ういなぁと嫌な予感のする今夏は異常な熱帯夜が延々と続いた。
しかし、出版不況(2010年)の中で何故、『1Q84』は爆発的に売れたのか、「1984〜」年はリブロの時代であったが、何故だったのか。
そして、2010年、かっての今泉の「リブロ時代」はどこへ行ったのか。