サヨナラからはじまること


少し、前の記事ですが、武田徹さんの「多感な老人」エッセイは僕の気持ちにも訴えることがありました。
退院して、一週間ぶりにパソコンを立ち上げたら、とても嬉しいことがあった。僕よりもの凄く「多感」な老人?(でも、還暦をメルクマークにすれば、老人でいいかw)の某から、コメントカキコがありました。
確かに「感じない男」より「感じやすい男」に老人であってもなりたい。例えホルモン療法で「去勢」処方を粛々と継続して、朝立ちは十年以上なくてもむしろ、今の僕は「感じやすい男」に変身しつつある気がする。
その不思議さに「サヨナラ」があるかもしれない。

(前略)
前に中島岳志さんと対談させて貰った時に、感じやすいがゆえに安易な共感に流れないようにジャーナリストとしては自制しているような話をしたが、そのへんから感じやすい男は感じない男(c森岡正博)になったのか? 忙しさについて、漢字を分解して心を亡ぼすとよくいうが、亡ぼされるのは考える心よりも感じる心なのかもしれない。
今、つくづく感じない人生は面白くないと思う。感じやすいのも大変なのだけど、それでも感じることから始まることは多い。たとえばサヨナラColorの歌詞じゃないけれど喪失感がなくしたものの大きさに気づかせる。気づかないと始まらない。その意味でサヨナラから始まることが本当に多くある。
非常にロジカルな仕事を多くこなしているひとの場合でも、多産性の核にあるのはやはり感じやすさなのではないか、と、最近の自分の生産性の乏しさを振り返る。多感な老人という生き方が可能なら、そしてこんなに感じなくなってしまった自分にそれが許されるのなら、将来的にはそれを望みたい。惚れやすかったりして、周囲には迷惑かもしれないが、そんなの知ったことじゃないと飄々としていたいもの。

PS,サヨナラColorYoutube映像を見ていたら忌野清志郎とはなれぐみがデュエットしているのがあって、そこから辿って生前の清志郎の動画をいくつか見た。「ぼくらはよく似た夢をみていたのさ」ってあなたに言われてもなぁ(スローバラード)と思う

「多感な老人」たちで紅葉狩りを企画したいねぇ。