出版状況クロニクル40/原発音頭?


小田光雄のクロニクルを読むと佐野眞一の『津波原発』で『「フクシマ」論ー原子ムラはなぜ生まれたのか』の開沼博とのやりとりを思い出す。

津波と原発大津波と原発「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか東電OL殺人事件 (新潮文庫)
 開沼は昭和59(1984)年、福島県の内郷の生まれである。
――内郷っていうと?
 「平と湯本の間です。常磐線で行くと、いわき、内郷、湯本の順になります」
――じゃ、「フラガール」の舞台になった。
 「僕が生まれた頃は、常磐炭鉱はもうとっくに廃坑になっていました。『フラガール』の舞台になった常磐ハワイアンセンターは1960年代からつくり始めて、僕が磐城高校に行っている頃には、もう閑古鳥が鳴いていました」
――ところで、『「フクシマ」論』はゲラで読ませてもらいました。お世辞じゃなく、本当に面白かった。特に双葉町長の田中清太郎の“小物”ぶりと、その次の双葉町長の岩本忠夫が“転向”で果たした役割についての分析が興味深かった。原発労働者にもたくさん会ったでしょうから、お聞きしますが、同じエネルギー産業に従事しながら、炭鉱労働者には「炭鉱節」が生まれたのに「原発音頭」が生まれなかった。これはなぜだと思いますか。
 「彼らは危険だということをわかりながら、自分を騙しているようなところがあって、その負い目が差別性につながっているような気がしますね」
――なるほど、その負い目が歌や踊りを生み出せなかった。でも、危険という意味では炭鉱労働も危険だよね。原発労働と炭鉱労働のこの差異はどこにあるんだろう。
 「炭鉱労働者が感じる危険さは、漁師が感じる危険さに似ていると思います。誇れる危険さというのかな」
――誇れる危険さか。板子一枚下は地獄っていう。原発労働者は何シーベルト浴びたからって誇れないものね(笑)。
 「炭鉱で死ぬっていうのは、すごくわかりやすいじゃないですか。でも、原発線量計持たされて、すぐに死ぬわけじゃないけど、目に見えない気持ち悪さってあるじゃないですか」
――確かに炭鉱労働には、オレはツルハシ一丁で女房子どもを食わしているという「物語」が生まれやすいね。でも、オレが何シーベルト浴びているから、女房子どもが食っていけるなんて、聞いたことがない。原発労働に似ている労働って何がある?売春に似ているのかな。
 「後ろめたい労働という意味では似ているかもしれませんね」(p222)

書影で内田樹さんたちの『大津波原発』を隣にアップしたが、装幀が良く似ているねぇ。原発労働者と炭鉱労働者との差異ほどの差異はないねぇ。
参照:戦後社会・労働運動と《幻灯》 - エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)
  ◆「東日本大震災に学ぶ:わたしたちにできる映画フィルム救済」@NPO映画保存協会 - エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)