世界が変わる
◆Here comes the flood | オンライン日記 | 1236
小幡績PhDの行動ファイナンス投資日記:金 暴落
◆小幡績PhDの行動ファイナンス投資日記:ダウ大暴落 新しい世界の始まり
◆開沼博の『「フクシマ論」』の結語。
原子力関係本で僕にとってもっとも触発された一冊でした。単に「原子力」「フクシマ」の問題ではなく現在世界のあらゆるところで起きている事象に通底する普遍性がある。
原子力との初めての出会い(それは福島ではなく六ヶ所村だったのだが)が私に与えた印象は今でも全く変わっていない。私たちは原子力を抱えるムラを「国土開発政策のもとで無理やり土地を取り上げられ危険なものを押し付けられて可哀想」と、あるいは「国の成長のため、地域の発展のために仕方がないんだ」と象徴化するだろう。しかし、実際にその地へ行って感じたのは、そのような二項対立的な言説が捉まえきれない、ある種の宗教的とも言ってもいいような「幸福」なあり様だった。村役場の前からPR施設までの移動に使ったタクシー運転手は言った。/つぶれそうなタクシー会社一つだけだったのが四つになってね。原燃さんが来てくれるまでは、一年の半分以上出稼ぎにでなければならなかった。危ないところでススだらけになりながら、家族と一緒に過ごせる日だけを楽しみにして汗水たらして働いて。今は一年中家族と一緒にいられる。子や孫が残って暮らせる。そういうもんですよ」/もう東京では半袖で歩く人が多い頃、まだ灯油ストーブが片付けられていない村役場前の民宿に泊まりながら聞いてまわった話と目にした光景は、己がそれまで身を浸してきた陳腐すぎる象徴化も、稚拙すぎる想像力も、とうてい捉えきることを許さないものを突きつけてきた。それは、まるで安全である「かのように」振る舞いあうことによって担保される「原子力ムラ神話」によって危うくも「幸せ」な生活を続ける現在の、そして、彼らの「子や孫が残って暮らせる」という夢がある面で叶い、そしてある面で完全に原子力に浸食されることになる未来のムラの圧倒的なリアリティに他ならなかった。そこから「植民地」を連想するのは困難なことではなかったし、また、「植民地」を切り口とした考察が一つの形を整えた今、それが「発想の飛躍」ではなかったことを確信している。/「良心」や「善き社会設立」への意志はこのリアリティにこそ向けられなければならない。少なくとも、当事者の語ることに耳を傾けともにあることから遅かれ早かれ逃げ出すような者の為すことは、真の当事者にとっては、影響が無いどころか迷惑ですらある。サイバースベースで民主主義が達成できるなどと夢想することもいいが、いくら社会の隅々まで複雑なネットワークが形成されようと、そのどこを探しても放射線などない。人が集まったなら国道六号線をただひたすら北上すればよい。「国土の均衡ある発展」を目指した挙句に誕生した田畑と荒地にパチンコ屋と消費者金融のATMが並ぶ道。住居と子どもの養育以外に費やしうる可処分所得をつぎ込んでデコレーションされた車。郊外巨大「駐車場」量販店と引き換えのシャッター街のなかには具体例をあげるのも憚れるあまりにどうしようもないネーミングセンスで名づけられた再開発ビル。その中で淡々と営まれる日常。例えば「ヤンキー文化だ」「地域〇〇だ」といったあらゆる中央の中央による中央のための意味づけなど空虚にひびく、否、ひびきすらしない圧倒的な無意味さ、成長を支えてきた「植民地」の風景は「善意」ある「中央」の人間にとってあまりにも豊穣であるはずだ。/信心を捨て、そこにこぼれおちるリアリティに向きあわなければならない。希望はその線分の延長線上にのみ存在する。(p383)
豊穣は腐臭を放ちつつもリアルな個別性を持つ。
参照:まとめよう、あつまろう - Togetter
袖井林二郎の『マッカーサーの二千日』(中公文庫)を読み始めています。