日にち薬/読書

ネットで保坂和志のエッセイ「遠い触覚  第十一回 二つの世界 前半」(「真夜中」 No.11 2010 Early Winter)を読む。
http://www.k-hosaka.com/nonbook/mayonaka11-1.html

書物の世界は果てがなく、それに関心を持っている人間は、死ぬ寸前まで関心が完了することがないということ。小島さんは実際には脳梗塞でブツ切りの形で活動が中断されることになったが、病気で明日死ぬと言われても本を読みつづけたに違いないということ。

僕も本を読み続けるしかない。読むことが「日にち薬」なんだろう。

◆僕の真夜中の読書
オルテガの『大衆の反逆』(桑名一博訳 白水社・1985年)を布団の中で読みつつ、これも交わらない「二つの世界」、「橋下徹の反逆」、じゃあないかと呟いていた。

 大衆は欲望とそれを満たす手段を持っているのだから、今日、以前よりも多数の者が、より大規模に楽しんでいるいるからといって、それを嘆く者は誰もいないだろうと思う。だが困ったことに、少数者だけのものであった活動を引き受けるとした大衆の決定が、ただ享楽の面だけで行われたのではなく、また享楽面だけというのはもともと不可能なのだが、そうした傾向が時代の一般的な風潮になっていることである。そういうわけで、あとで考察することを先まわりして言えば、私は近年の政治的変革は、大衆による政治の支配以外のなにものでもないと信じている。かってのデモクラシーは、自由主義と法に対する情熱という効き目のある薬のお蔭でおだやかに生きつづけてきた。これらの原則を遵奉するに当たって、個人は自己のうちに厳格な規律を保持するように義務づけられていたのだ。少数者は自由主義の原則と法の規範の庇護のもとに活動し、生活を営むことができた。デモクラシーと法は合法的共存と同義語であった。ところが今日、われわれは超デモクラシーの勝利に際会しているが、そこでは大衆が法を無視して直接的に行動し、物質的な圧力によって自分たちの希望や好みを社会に強制しているのである。この新しい事態を、あたかも大衆が政治にあき、その仕事を専門家にまかせているかのように解釈するするのはまちがいである。事実はその反対である。政治を専門家にまかせていたのは以前のことであり、それは、自由主義デモクラシーのことである。当時の大衆は、政治家という少数者にはいろいろな欠点や欠陥があっても、こと政治問題に関しては、結局のところ彼らのほうが自分たちよりは少しばかり良くわかるのだと考えていた。しかし現在の大衆はその反対に、自分たちには喫茶店の話から得た結論を社会に強制し、それに法的な効力を与える権利があると思っている。私は、われわれの時代におけるほどの群衆が直接的に支配権をふるうようになった時代は、歴史上かってなかったのではないかと思う。それだからこそ、私は超デモクラシーについて語るのである。
 同じことはその他の分野でも、とりわけ知的な分野において起きている。あるいは私のほうがまちがっているのかもしれないが、今日の著作家は長い間研究してきたテーマについて書こうとペンをとる際に、次のことを頭に置いておくべきである。つまり、そうした問題について一度も考えたことのない普通の読者がたとえ彼の著作を読むにしても、それは彼から何かを学ぼうとするために読むのではなく、その反対に、その読者が頭につめこんでいる凡俗な知識とくい違うことを見つけたら、著者を断罪しようとして読むのであると。もしも大衆を構成している個人個人が、自分には才能があるのだと信じているとしても、それは個人的な錯覚の一例にすぎず、社会的な秩序紊乱とはならないだろう。現代の特徴は、凡俗な人間が、自分が凡俗であるのを知りながら、敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆる所で押し通そうとするところにある。アメリカで言われているように、他人と違っているのは下品だという考え方だ。大衆はあらゆる非凡なもの、卓越したもの、個性的なもの、特別な才能を持ったもの、選ばれたものを巻きこんでいる。すべての人と同じでない者、すべての人と同じように考えない者は、締めだされる危険にさらされるのだ。だが、この「すべての人」が「すべての人」でないのは明らかである。以前は「すべての人」とは、大衆と大衆とは離れている特別な少数者からなる複合体であるのが普通であった。今日ではすべての人とは、ただ大衆だけを意味している。(p56~8)

僕は地元で「明るい選挙推進」(白ばら)員しているがこの動画は初めて視聴した。
この動画で投票率アップにつながるのかなぁ。萎えるなぁ…、陰画のない明るさ。
これもオルテガの言う「超デモクラシー」なのか。

何故、橋下徹は選挙に強いのか。