「ニート」って言うな!>フーテン

 最初、『「ニート」って言うな!』の書評を久し振りにbk1投稿しようと思ってたら、以下に書いたように前振りが長くなって、話も逸脱したので、当初の予定を変更してトラバすることにしました。書評投稿は又、後になりますね。
 ◆「ニート」っていう言葉にお目にかかったのは玄田有史・曲沼美恵共著『ニート』という本を読んでからです。そのときの印象では“hikikomori”、“フリーター”とどう違うのか新たにネーミングする意味はなんだろうと疑念を持って本書を読んだのですが読後、霧が晴れたわけではありませんでした。まあ、僕は保坂和志の言う「働くことには思想はいらない、働かないことには思想が必要だ」というスタンスに近いものがありますから、「働かないことで生きることが出来るなら」、それでいいではないか、蕩尽できる財がある人、国はどんどん、蕩尽すればよい、そうすれば富は円滑に循環する。持っている人、国がこれ以上、蕩尽しないで蓄財をやられるとその方が弊害が多い。持っている人はどんどん金を使って貧しくなり、持たざる人は蓄財に精を出して、持てる人になる。そうやって社会の富が回る。「働かない子供を養う余裕」があるのなら、別段、とやかく言う必要はないだろう。労働市場のパイは少ないのだから、就業意欲のある人に働いてもらえばいい。「働きたくない人」には、「結構なご身分ですね」と揶揄はしても悪し様に言い募る必要なないはずだ。「お蔭で一人分の労働市場の空きが確保できました」と感謝してもよい。
 又は『自由の平等』の立岩真也が言うように「働ける人が働き、必要な人が取る」、社会構造を考える方がより生産的ではないか。本書の前提にあるマイナスのイメージとしてのニートがもうひとつ理解出来なかったのです。「ニート」(Not in Education,Employment,or Training)はイギリス由来の概念で、就業もしておらず、教育や職業訓練を受けていない若年層をことを指し15歳から35歳の年齢幅を設けたあくまで労働行政上の概念なのですが、イメージとして「おたく」、「萌え」などと同様キャッチコピーのような様々な局面で使用される都合の良いイメージ先行の説明概念のような使い方がされていますね。まあ、賞味期限があると思いますが、「おたく」や「萌え」、「hikikomori」のように生きながらえるかどうか。
 本書はとくに若者論で自分に都合の良い解釈でこの国がダメになってゆく元凶の一つに「ニート問題」があるとのマスコミ・文化人たちの言説に違和を感じ検証した従来の「ニート」に関する本とは違う切り口の中々刺激的な本になっている。三人の執筆者の内藤朝雄はいじめや憎悪が生まれる社会的なメカニズムを研究対象にする社会学者、本田由紀は教育・労働・家族の関係について実証研究を行ってきた教育社会学者である。後藤和智bk1の書評者として僕にとっても御馴染みの人で通俗的な若者論に対する詳細な検証と批判をネット上(後藤和智事務所)で展開している智だけでなく度胸と体力のある現役の大学生です。ちなみに本を作ることの合意が三人の間で形成されたのは本田さんのブログ上のコメント欄ということです。ここにもネットの力がありますね。
 僕のよく行く社会労働専門図書館の同じフロアーにジョブカフェosakaがあり、ハローワークと違ったカジュアルな雰囲気でスタッフもボランティアもいるし、時々覗いてみるのですが、あくまで35歳迄の若者の就業支援であって、年寄りの失業者はお呼びでない。
 記憶では「ニート」という言葉を知り始めた頃にオープンしたのです。だから、僕の中で「ニート」の定義は労働の意思を持たない35歳迄の若者達のことでいたって簡単です。そんなのは困るとの行政の判断で民間、組合との共同で何とか若者たちに「働くことは楽しいことだ」とまず、働きたいという動機を植え付けさせ、そして組織に中で働くことにとって一番肝心なことは「コミュニケーション力」でその訓練を行う。そんな指針があるみたいです。そういう意味での「ニート」の定義は問題項で、解決すべきものとして労働市場の中では実体のある概念でしょう。
 本田由紀はイギリスの「NEET」は失業者を含むのに対して日本の「ニート」は失業者を含まないと言う。労働の意思がないもののことを言うのでしょう。少なくとも働きたいのに働き口がないのは失業者であっても「ニート」ではない。それを少なくとも35歳までの若者に限定するという理解なのでしょう。
 しかし、現在、巷で流布している「ニート」言説は、そのような労働問題としての処理の仕方ではなくて、幅広い使い方をされていますね、マスコミであれ、人々の会話であれ、共通の了解は「ダメ人間」みたいな使われ方です。そんな俗流若者論に味付けしたご都合主義の「二ート」言説に待ったをかけて、「ニート」って言うな!とメッセージした本書は凄くタイムリーな本であるし、仮に「ニート」っていう言葉が風化しても三人三様の時代に流されないラディカルな言説は生き残ると思う。この際、漠然とした「ニート」を本書で学習し直して一体「働くこと」ってなんだろうと考えてみたいものです。
 本田由紀は【A】非求職型(働きたいという希望はあるのだが、具体的な求職活動をとっていない)と【B】非希望型(働きたいという気持ちも表明していない)を「ニート」と規定し、【C】求職型(失業者)と【D】フリーターを「ニート」以外とカテゴリーする。そして実際、データ(15歳〜34歳まで)を見るとこの分類の「ニート」は殆ど増えていない。1992年〜2002年の10年で倍増したのは失業者、フリーターであって、「ニート」ではない。それなのにどうして「ニート」が強調されるようになったのか、僕だってそこに胡散臭いものを感じる。フリーターの問題解決はまず正社員の窓口を広げる。当然、労組の協力も必要でしょう。労働問題なのです。でも、「ニート」は特に「非希望型」はほっとけばいい話です。わざわざ「ニート」って言う必要もない。
 行政がまず手をつけるべきはフリーターの脱法的労働環境の悪さでしょう。何の保証もない、組合のバックもない、使い捨ての労働者がどんどん増えてゆく実体こそが恐るべきことであって、早急に解決しなければならない労働問題なのです。へそ曲りに勘ぐれば、安い労働力、使い捨てのフリーターがむしろ増えてもらえばよい、そんな本音をカモフラージュするためにいかにも将来の日本を憂うみたいな「困ったぞ、ニートの若者が増えてしまった」と訳知り顔で物申す輩を輩出させ、攻撃の的を変換させているのかも知れない。
 まあ、そんな人々の無意識にリンクした差別的言辞の臭いは感じますね。労働者も二極化している。「ニート」はフリーターからも正社員からも異端視されるでしょうね。でもその意味での「ニート」は“悪しきもの”の記号であって実体はない。厭うべきものを「ニート」と言ってしまう。その構造が胡散臭いのです。
 僕の知人で大学を卒業してアルバイトさえしようとしなかった男がいましたが、もう五十歳を越えているでしょうね、それでも飄々と生きていた。昔からそういう人は一定数いましたね。そんな人がもし、一人もいない社会は住みたくないですね。でも、それをわざわざ「ニート」なんて定義付けなかった。そう言えばこの男と共通の知人でもある今でも小説を書いているT君は時々いまだにオヤジフリーターをしているが、こんな小説を書いていた。主人公が自己申告の無銭飲食をやるのです。舞台は30年前の話です。

「私は別に始末書をつくるつもりはない。君も道理をわきまえていない年頃ではないのだからな。ことの善悪は判っているはずだ。えっ、後悔してるんだろう?」
 彼は瞼の重そうな眼つきで青年を見つめている。青年は無反応な顔つきで巡査を見つめ返している。(中略)青年はどこかを漂っているような軽やかな視線を、表通りに面した窓ガラスの端にとめた。雨垂れのしみついたその窓枠には、乾ききった埃が強い光を浴びてうきあがり、繊細に顫える美しい光を反射している。彼は解放的な表情で見とれていた。
「ところで、なぜ無銭飲食などをやらかしたんだ。うむ、むろん腹が減っていたからだろうが。見たところ、……何かあやしげなことをしてるんじゃないだろうな。陰で爆弾などをつくり、過激な活動をしているんじゃないだろうな。……うむ、そうだな、彼らならこんな間抜けなことはやらかさないだろうな。どうやら、失業中らしいな。―」
 巡査は机の上に片腕を投げ出し、指先で机をたたきながら、失業中だね、と念を押すように言った。青年はゆっくりと彼に視線を戻した。青年の茫洋とした瞳の奥には、何かの動きに似たものがうかびあがり、深く潤い、やがて底に沈むようにして消えた。彼は柔和な眼差しで巡査を見つめている。
「む、何か言ったか?」
 巡査は身構えるでもなく、眠そうに訊いた。
「何かの位置づけを必要とされているのなら、それでもいいですよ」
 青年はもの静かな声音で言った。
「その言い方は何だ。どう云う意味だ、それは?」
「今は働いていませんから、それが失業中と云うことになるんだったら、そうでしょうね」
「なぜ働かないんだ?いくらでも職はあるだろうが」
「ゆったり生きてゆけるのに、その余裕も持たずにつまらないことであくせくしたり、ぎすぎすした感情に落ちこんだりすることはないでしょう。一定の職に就くことによって、かえって失われるものが多すぎますからね。自分を縛らず、何にも捉われず、自分を解放していれば、一瞬一瞬に過ぎ去っていくものに自分が面と向きあっているのが判りますし、ここにある自分が生きているなァと云うことが感じられますからね」
「あン? ……そんなことが一体何の役にたつというんだ。どうしょうもないだろう。働かないでは一人前の社会人とは言えないだろうが」
 巡査は二重顎を喉もとに厳しくひきつけた。青年の表情からは、神経が集中したような感じはすでに消えている。彼は流れるような充実感の中に運ばれていくように、きらきらと輝き渡っている窓外に眼を移している。そこには種々の静寂の音のようなものが拡がっていた。巡査は青年の返事を待って、彼の落ちついた沈黙に苛々していた。それを察した青年は穏やかな眼差しでじっと巡査を見つめ直していたが、低く抑揚のない調子で呟くように言った。
「そう云うことで、そんなに悩むことはないんじゃないかと思いますけど」
「なに?」
「僕らは、僕らが何をしても揺るぎもしないような、広々とした、豊かな無関心さの世界に抱きとめられているんだから、ゆったりと安心していればいいんですよ」

 時代は感じますか、30年前に書いたものです。この時代の「フーテン」は多分、今では「ニート」でしょうね。でも今のニートと違うところは「フーテン」は憧れの的でもありました。モテましたからね。永島慎二の『フーテン』は懐かしいね。
 参照:leleleさんの提供で内藤朝雄さんの素敵な写真がアップされています。(注:お詫びです。本文で内藤朝雄さんと表記するところ内田朝雄さんと書いてしまいました。実は本屋さんで問い合わせた時も内田朝雄と言ってしまったのです。内田朝雄は僕の好きな俳優でしたのでその刷り込みかも知れません。無意識に内田朝雄となったみたい。でも、実際の内藤朝雄さんは悪役が似合う内田朝雄さんと違って二枚目ですね。ごめんなさいでした。)
 追伸:えこまさんが『昔だったら「ニート」(フーテン)はモテた』というエントリーをアップしてくれました、このタイトルには笑いましたね。でも本当にフーテンはモテたのです。でも、よく考えれば、ホームレスとの違いが分からない。年齢で分けるしかないですね。「若者ホームレス」(15歳から34歳まで?)となると「ニート」分類と重なるか…。
 当時、寺山修司も「家出のすすめ」で本も大ヒットし、全国津々浦々講演回りをし、受け皿で劇団「天井桟敷」を設けて家出少年を受け入れたでしょう。あの時代の少年問題は「ひきこもり」でなく、「家出少年」でしたね。そのつながりで「フーテン」があり、今は逆に「ひきこもり」のつながりで「ニート」があるみたいですね。フーテンは徘徊するけれど、ニートは閉じこもる、そんな逆向けがあるんでしょうね、だから、似ているようで似ていない。僕は放浪癖がありますが、ニートにも「働くことが嫌なら、それでいい、」でも放浪の楽しみを知ってもらいたいと思うのです。ということをえこまさんところにコメントしました。
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