萱野稔人、国家って不滅なのか、佐藤優も、

オンライン書店ビーケーワン:1968年オンライン書店ビーケーワン:VOL 02オンライン書店ビーケーワン:国家と神とマルクス
 マル激トーク・オン・ディマンドの第320回(2007年05月18日) 『フランス大統領選が露呈したグローバル化の現実』ゲスト:萱野稔人氏(津田塾大学国際関係学科准教授) は面白かったです。前半は少し遠い話ですが、
 後半は赤木和智氏の「『丸山眞男』をひっぱたきたいー三十一歳、フリーター。希望は、戦争。」(『論座』07年1月号)について、萱野さんが、赤木さんの真意は単にカネの問題ではなく、「社会的承認の問題」で、4月号の七人の論者の応答文はそのあたりのことがズレていて、「社会的に承認されている人たち」が、「社会的の承認されていない人たち」に対して蘊蓄、政治的正義を語る説教に赤木さんはイラだったと言うことなんでしょうと、言っていましたが、
 僕もこの辺りのことは過去エントリーで触れていますが、その通りだと思う。
 でも、何故、「七人の論者たち」が、どうしてそのような物言いになってしまうのか、そのことが知りたいですね。絓秀実の『1968年』(ちくま新書)から引用します。

正義がルサンチマンや嫉妬を内包している限り、その運動は、つまるところ否定的なものにとどまるほかはない。今日、それはPC(ポリティカル・コレクトネス、政治的な正しさ)と呼ばれて、誰もがそのことを否定できない。確かに「差別」はいけない、というわけだ。しかし、誰もがPCを「ウザい」と思っているだろう。たとえば、「差別語」のトリヴィアルな自主規制に対して、である。インターネットの掲示板には、プチ・ナショナリズムに感染した「ウヨ」たちの、PCへの怨嗟の言葉が満ちている。今や、「正義」はこうしたディレンマにおちいっていると言えるだろう。
 そのことは、68年以降の歴史によって、すでに明らかになっている。68年の左派においては、嫉妬やルサンチマンは、むしろ大衆のアモルファスな心性として肯定的に捉えられていた。「土着」や「情念」という言葉は、積極的な流行語であり、「ナショナリズム」は、そこから肯定的に再評価されるものと考えられていた。それは、正義を実現する力だと見なされていたのである。ところが、それは今や逆のものに転換してしまったようだ。今日の右派=ネオリベラリズムもまた、大衆の嫉妬に依拠した正義の主張だからである。
 ネオリベラリズムが、68年のアナーキーな自由への希求を市場原理的な「自由」へと回収しえた理由も、そこにある。「官から民へ」を掲げて国鉄を解体し民営化した80年代中曽根(康広)「民活」から今日の小泉(純一郎)の「郵政民営化」=構造改革にいたるまで、それらへの大衆的な支持の心性は、「改革」(革命?)へのファンタスティックな願望とともに、下級公務員への嫉妬でしかない。つまり、「なぜ公務員だけが、楽な仕事と高賃金と終身雇用でいい思いをしているのか。それは税金の無駄遣いだ」というものだ。
 この公務員への嫉妬が、歴史的なものであるのも明らかである。かって「デモシカ先生」という言葉があった。「先生にデモなるか」、「先生にシカなれない」という意味である。ことほど左様に、学校教員(とりわけ中学校以下の)というのは、ちょいと教育資本があれば誰にでもなれる低賃金のつまらない職業と見なされていたのだ。戦後の学制改革時には特にそうであった。
 同様に、国鉄職員や郵便局員など中下級公務員も、主には、高等教育にまで進めぬ地方の農家の次男三男が仕方なく流れていくところだったのである。それは、68年あたりまで、おおむね、そうであった。ところが、今や、その序列は逆転してしまった。多くの若年層にとって中下級公務員は羨望されるべき職業なのである。かって革命的(?)にはたらいていた嫉妬と分配的正義への欲求は、今日では保守派を活気づけるものとなっている。しかし、それは同じものなのだ。(p18〜9)

 切実さの濃度は「ルサンチマン」を内包できなければ高まらない、「ハングリー精神」なんでしょう。所詮、ハングリーなき者は形勢が不利になる。だからこそ、満たされた、承認された「持てる者たち」は、高い壁を築こうとする。彼らを見えないものとして視界の外に追いやる。彼らが怒って当然でしょう。
 そう言えば、初級公務員の受験に関して学歴詐称問題が露呈しましたよね、大学を卒業しているのに、卒業していないことにする。高学歴を隠さなければ安定した職場につけないっていうのも確かにありました。
 昔、本屋の同僚で退職して小学校の教師になったのがいて、一方、別の同僚は大学の博士課程に復帰して国立大学の助手になったのですが、歳も助手の方が先輩なのですが、給料は小学校の教師の方が全然高い。色川武大がエッセイで郵便配達員になりたかったとどこかで書いていましたが、もの凄く、よくわかります。
 ◆ところで、宮台さんが、僕も過去のエントリーで書きましたが、中沢新一に対する批判書、島田裕己『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて 』で、宮台さんが法華宗に言及しながら、「人を見て法を説け」と言っていました。
 動画で萱野さんを拝見出来ますが、マル激は月525円のお駄賃が必要です。
 そうそう、YOUTUBEで、佐藤優の講演が聴けますね、
 
 五回まで続きます。
 参照:◆2007-05-21 - les livres lus au clair de la lune
2007-05-23http://d.hatena.ne.jp/K416/20070519/1179580216http://d.hatena.ne.jp/K416/20070520/1179632443http://blog.yomone.jp/kayano/2007/03/post_98c7.html ◆深夜のシマネコBlog: お金の問題を放棄して、承認問題の解決はありえない