聖域なき改革をできるのは、崇高なネオリベか?

帝国の条件 自由を育む秩序の原理

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「αシノドス vol.7」が本日配信されて、興味ある『【2】座談会 / 白井聡×芹沢一也×荻上チキ×セミナー参加者 「リベラリズムの越え方』を粗読していたのですが、白井聡さん言う「崇高なネオリベラリスト」という概念は面白かった。
映画タイタニックの沈没しながら最後まで演奏をやめなかったあの伝説の楽団員たちに比すべきビジネスマンがあの9.11のツインタワーにいたであろうかと言う白井さんの空想です。

白井:アメリカの思想的な弱さが露呈したのが、まさに、9.11の神話化するための作品や言説の主役がほとんどがファイヤーマンだったことですよね。むしろ働き続けるビジネスマンを撮るべきだった(笑)。そうすれば突き抜けていられたのでしょうが。
芹沢:むしろ、つきぬけるべきだったと(笑)。崇高としての恣意に挺身するビジネスマンを描き出すことで、新自由主義を事後的に原理化できたかもしれないと(笑)
白井:その通りです(笑)。先ほど休憩中に、隣の学生の方と話していたんですが、彼の友人に野村證券のビジネスマンがいて、ツインタワーのすぐ隣のビルで働いていて、生き残ったそうです。その人はその後すぐにその職をやめてしまった。それはなぜかといえば、1週間後には別のオフィスに移って会社は何事もなかったかのように営業を再開してしまい、もうここでついて行けないと感じたからだそうです。となると、僕の空想もあながち間違いではないかなと。やっていることは、実質的に僕の空想したことに限りなく近い。現実はそうなっているのに、原理化による正当化をできないので、その野村証券の方のような「脱落者」を生んでしまう。思想戦における敗北です。

僕は橋下府知事の「聖域なき改革」が、そのような「崇高なネオリベラリスト」の思想性に突き動かされているものなら、「かなわないなぁ」と思うわけです。だけど、橋下さんは、そんな楽団員でもビジネスマンでもなく、ファイヤーマンに近いものだと思う。
ところで、橋下改革の第三回目のパブリックコメントは「大阪ミュージアム構想」について書きたいと思いそれに関するデータを集めているのですが、大阪ミュージアム構想が一番わかない。必要性も緊急性も感じないどころか、この構想自体のイメージが沸かない。昨夜、放映されたNHKスペシャル「何を削り 何を残すのか 〜大阪 “橋下改革”の舞台裏〜」でも、大阪ミュージアム構想については一言も触れられなかった。
プロジェクトチームのリーダー小西禎一氏が1100億円の削減目標に対し、医療・福祉、障害・安全のセーフティネットに関わる問題に「聖域なく切り込むことが出来るか」、プロジェクトチームと各担当部局との攻防戦を主に報道したもので、教育・文化・労働も含めてネットでも情報を沢山集めることができるけれど、この「大阪ミュージアム構想」に関する詳細な具体的なものはない。少なくとも僕の貧困な想像力をかき立てられないのです。
だけど、ちょうど、郵便ポストに『府政だよりNO.330』が配られたので、見ると、一面が『「大阪維新」プログラム(案)でどうなるの?』という特集記事でした。Q&Aの方式になっており、まずは、「大阪ミュージアム高層」の項目を探したら、何と、アンサーが一番文字数が少ない。味も素っ気もないのです。●「光等による大阪の魅力の演出 など」益々、イメージが沸かない。これじゃあなんのことやらわからない。まだ、先日、妄想気味に書いた僕の「一万人の御堂筋祭り」の方がイメージが沸きます。実務上の問題は別にしてねぇ。
参照:http://www.pref.osaka.jp/kikaku/ishin/ishin_5-1.html
こちらの記事によると「6月上旬に示される重要政策PT案で詳細を明らかにする見通しだという。」となっているが、まだ見えないですねぇ。(http://sankei.jp.msn.com/politics/local/080517/lcl0805171458004-n1.htm
イルミネーションが、橋下知事の文化行政の奥の手ならば、寒いです。
http://sankei.jp.msn.com/politics/local/080611/lcl0806112210007-n1.htm
◆ところで、シノドスで、白井さんが喋っていることをちょいと引用。

ネオリベを徹底しましょうというときに、思想的なことと、実際の事情との乖離が大きすぎる。いや、実際の事情といっても、それは永田町や霞ヶ関の論理や現実を指しているにすぎない、と言われるかもしれません。しかし、それはいくら腐敗していようが、愚劣であろうが、実際の権力であることは間違いないのです。ネオリベの徹底によって永田町や霞ヶ関が否定されるということはなく、反対に永田町や霞ヶ関ネオリベの論理を、自己を正当化するような形で使うことになるだろうと予想されてしまうわけです。ですので、橋本さんの議論には随所に過度の楽観主義を感じてしまう。

ここに言う橋本さんは、『帝国の条件』(弘文堂、2007年)の橋本努さんです。