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チョムスキー 9.11 Power and Terror [DVD]対話の回路―小熊英二対談集永遠の不服従のために (講談社文庫)
 あるところで、9.11のことで世代論とからめたやりとりをやっているのですが、9.11の総選挙のことでなく、同時多発テロのことです。そう言えばDVD『チョムスキー9.11』を持っているのにまだ見ていませんでした。チョムスキーの9.11の本は読んでいたので映像の方はいつでもいいやぁと、色々な人に貸してあげながら、やっと手元の戻ったのですが、肝心の僕はまだ見ていないのです。だからと言って9.11が色褪せたというのではない。この映像をみた人によれば、本で読む辛辣で頑固な人というイメージがあったのに意外に温厚で優しいおじいさんっていう感じだったと言う。アメリカの鶴見俊輔ですね。でも、辺見庸『永遠の不服従のために』によれば、全く違うチョムスキーの貌である。

 彼はほとんど私の眼をみようとしなかった。話の最中にたまさか偶然に眼が合っても、なにか芳しくないものでも見てしまったかのように、すぐに視線を逸らすのであった。私の眼は、相手のスモークブルーの瞳を追いかけた。インタビュアーとしてはそれは義務のようなものだから。やや疑り深そうなその眼は、だが、さりげなく私から逃げた。堕ちつつあるなにか、崩れつつあるなにか、頽廃、下卑たユーモア、澱んだ虚無、諦観、毒だけの皮肉、狡知、自棄……どう意地悪く探ってみても、そうした色の微塵もない瞳なのであった。私がせめても縁としたいものが、つまり、まったくない。逆に、私の眼はそれらすべての色のかけらを、いつもながら、隠しようもなく浮き沈みさせていたはずである。やっぱり私は嫌われているな。この人はずいぶん遠いな。なにがなしさにそう思った。そのことを彼も察知したようだ。だからだろうか、あるいはこれが常態なのか。その痩身の碩学は話すほどに私に対して容赦がなくなっていった。(p182)

 辺見庸の屈折ぶりは続く。この一文をもう一度読み返して、このDVDをみようと思います。手に入れてから二年は経っているというのに…。
しかし、小熊英二さんはテレビで9.11を見ていないんです。彼はテレビなしで生活しているらしい。『対話の回路』で島田雅彦との対談で、島田さんが、「ずいぶん珍しいですよね、ヴィデオがありますよ」に答えて、

 小熊 いや、いいです(笑)。映像を見ていないから、みなさんがなぜあれほど時代の転換点にあたる大事件のように論じるのか、感覚的によくわからないんですよ。ただそういう立場から、あらためて冷静に考えてみれば、テロがあったからといって、容疑者がいる国を空爆するなんてことが正当化されれば、主権国家システムも内政不干渉原則もあったものじゃない。これから、たとえばインドカシミール問題のテロを理由にパキスタン空爆しても、原理的には文句が言えなくなります。現にイスラエルは、いまそれをやっているわけですね。それなのに、アメリカに関しては、なんでこんなに支持が高まるのか。
 そういった意味で、今回感じたのは、メディアはアメリカのナショナリズムの教育装置として、世界的に機能しているのだな、ということです。これが日本のナショナリズムの国内的な教育装置としては、どう作用するのか。
 一つ言えるのは石原慎太郎小泉純一郎などが支持を受けてしまうのは、そうしたメディアの効果だということです。ああいう、中身のないスローガンで、理念まがいのことをいうポピュリストが人気を得ている。
 これはおそらく、1950年からの、吉田茂に象徴される親米保守外交のあり方が、限界にきていることの反動でしょう。あの路線は、煎じ詰めていえば、「理念は捨てても、金が儲かればいい」ということですよね。つまり、憲法の理念は空洞化して、アメリカの保護下で経済成長に専念するという路線だったわけですが、それが飽きられてきている。
 吉田はもともと外務官僚で、内政には経験も知識もなかったと認めていますし、一般世論とかは軽視しても、エリートがきちんと政策を担当すればよいという現実主義外交の人だった。だから内政的な理念は空洞化しても平気だったんでしょうが、最近のように経済力が低下してくると、その路線では持たなくなって、正体不明でも理念らしいことを言う政治家のほうが人気が出てきた。これはアイデンティティ希求の高まりと一体でしょうが、メディアがこのポピュリスティックなナショナリズムを強化するのは恐い。
 島田 小泉首相というのは、腹式呼吸で力を入れて発言する人なんですが(笑)、あの人の発言の特徴は、主語や述語じゃなくて副詞に力が入ることですね。つまり、「決然と」とか「主体的に」とかいった副詞が中心であって、誰が何をするのかの内容にあたる主語や述語には、じつは力点が置かれていない。
 小熊 作家らしい観察ですね(笑)。あえて学者っぽい答え方をすれば、今回の派兵決定では「主体的」という言葉が妙に印象に残りました。つまり日本は、主体的に対米従属するというのですから。あれを聞いていて、フーコーの「主体=臣民}という概念を思い出していました。(p103~4)

参照:高橋悠治世界の根拠のなさについて