赤であれ青であれみんなで渡れば怖い!

 leleleさんが連日、「加害者の証言」をアップしていますね。今、現在の日々の暮らしの中でも隠蔽されているが、何らかのきっかけで露呈し得るある種普遍性を帯びた怖さがある。

[…]同郡G村N集落にクメール・ルージュが入ってきたのは、70年のことであった。その直後にベトナム軍もやってきた。当時、集落長を務めていたCさん(71歳)は、72年になると村の治安組織から集落の密偵長に任命された。おもな仕事は、小銃を持って12人の部下と共に、集落の周辺の警備をすることだった。[……]
「ひとり目を殺せれば、あとは人の死が無意味に感じられてくる。だから何人でも殺せるようになる。問題は、社会がそういう雰囲気になってしまったことだ。誰が指示したかということは、いまとなってはあまり問題ではない。なぜならば当時、私たち密偵のなかで、ポル・ポトの名前を知っている者などいなかったのだから」

 そしてleleleさんは結語するのです。

3人のサハコー幹部の証言を聞き終えたあと、私にはひとつの疑問が生まれた。それは、「この人たちは、加害者といえるのであろうか」ということである。
 この問いは、ポト時代に支配する側であった人びとを免罪するつもりで発しているのではない。絶えず敵をつくらないと、自分が敵になるという構造。平等化を唱えつつ、小さな差違が生じると処分されてしまう状況。言い換えれば、絶えずスケープゴートをつくり出し、それを排除しておかないと、みずからが排除されてしまうような社会、それがポト時代なのである。そういう時代のなかで、みずから進んで排除される側になろうと思う者など、果たしているであろうか。

 内部に居れば排除の構造に絡めとられる。日本の学校のクラスという小さなコミュニティにも同様な「いじめ構造」があるであろう。子ども達にとって選択の一つはは登校拒否であるが、カンボジアにあって、コミュニティからの脱出(登校拒否)は貧しい人びとにとって非常に困難である。一体、他の国々で難民を積極的に受け入れる施策が自国民の賛同を得られるか心許ない。かような困難な問題がこの世界にある。排除が排除を生む。僕たちはカンボジアでなくとも一枚板の下はそういう地獄が控えているという世界認識は常に持っておる必要があるであろう。安易に誰かを排除すれば、いつか自分自身が排除される事態になる。排除されることが怖いからと言って排除すれば、その排除のスパイラルに嵌り込んでしまう。他人事ではないのです。イデオロギー、処世術、何でもいい、自分の立ち位置を少数派に置く。常に多数派に身を置こうとする生き方は結局排除される可能性を、危険性をアップされる確率を高めるだけだ。せめてこのねじれ構造だけでも理解して欲しいものです。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」ではなく「怖いのです」、僕の知人でオカシナ男がいました。信号が赤であれ青であれ、関係ないのです。あくまで左右を見て大丈夫だと思えば赤信号でも歩行横断する。逆にみんなが青信号で渡っても、何か危険を察したら、渡らない。自分の身体がセンサーなのです。