何故、惹かれたのか?

 ミクシィの『風の旅人 読書会』コミュニティでかぜたびさんが、エミット・ゴーウィンのネバタ核実験場の写真についてある読者から、≪「どうしてあんなに美しく見えるのでしょう?」と、読者の方に問われました。 美しく見えてしまうところに、何か大事なことが潜んでいるような予感がするけれど、理由がよくわかりません。いったいなぜなんでしょう? どなたか、何かしら思うところはありませんか?≫との問いを立てたのに反応して、僕は下記のようなレスをしました。

発売されてすぐにブログに書いたことですが、タイトルを読む前に写真を見たわけです。核実験場という認識はないままに惹かれたのです。後知恵で「そうなんだ、核というおぞましい痘痕なんだ」と、もう一度、情報をインプットしても、最初の驚きの痕跡は消えません。逆に「ネバタ核実験場のクレーター」写真なんだという認識のもとに見た場合、良くも悪くも何らかのバリアがかかったかも知れません。何故、こんなことが起こったかという一因に「風の旅人」の雑誌では今月号では特にタイトル、目次が小さい活字で編集されていますよね、老眼を使っているのですが、店頭でまず雑誌をめくる場合は眼鏡をかけないで見るわけです。それで、写真以外の情報は読むことが出来ないのです。ただ、写真だけははっきりと見えます。そのような僥倖(というべきでしょうか)で、ゴーウィンの写真に出会ったのです。かぜたびさんの編集方針に執筆者のプロフィール情報を出来る限り掲載しない、何の先入観もなく作品だけに対峙してもらえる誌面つくりを心がけているとありましたが、今回のこの写真では偶然にも、「読むより前に見る」があって、「驚き」の体験をしたのです。

その過去のブログを探しましたが、ありました。10/1ですね。

16号の表紙の写真を見て、「すごいエロス」を感じました。何の先入観もなかったのです。でも、ここはネバタ核実験場の爆心地なのです。怖れと畏れは近しいものなのか、何故、荒涼たる風景に惹かれるのか、

「廃墟」にヒットする僕の感性とかそんな意味づけは後解釈で、「驚き」があったことは間違いない。過去ブログに『福音か絶望』『死体には秩序があります、フィギュアには?』で、僕なりに書いていますが、要は「驚き」が世界へつながる依代であって、この一枚の写真がそのような「驚き」を与えてくれたことです。だが、「ネバタ核実験場」という意味づけが挿入されたとき、最初の偶然性に曝された「驚き」が再現可能な何かに変色されたということです。その時、新たなコンテクスト、物語が生まれ、名付け得ぬ一枚の写真が社会性、政治性を帯びたものとなる。多分世界から見放されるということはそう言う事でしょう。世界から追放される替わりに僕たちは社会性を手入れることが出来るのかもしれない。
♪画像はこちらでご覧になれます。オンライン書店ビーケーワン:風の旅人 Vol.16(2005)
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