久し振りに藤原新也に触れる

 藤原新也朝日新聞1/23付採録『愛国心と愛民心』の記事が本田由紀さんところで紹介されてすごく気になっていたのですが、Shinya talkの1/25にネットアップされました。久し振りに新也節を拝聴するとやはり心地良さがある。行間までびびっと伝わってくるものがあります。生の藤原さんは硬派の文体と違って温厚で暖かそうな人の話をじっくりと聴いてくれそうな懐の深い人という印象でしたが、文章は相変わらず熱い。
 僕のオヤジは平成七年に亡くなったが、旗日は必ず陋屋の玄関先に日の丸を掲げていた。町内に日の丸を掲げる家はめっきり減っていたので、目だって仕方がないと、恥ずかしいとお袋はこぼしていた。Shinya talkの冒頭でタクシーの運ちゃんが「最近はこうして街を走っていても門松をみかけませんなぁ。日の丸もない。日本の伝統を守る気持も愛国心も地に落ちたもんですよ」と言ったと書いているが運ちゃんの批評はともかく事実はそのとおりだろう。学校で日の丸掲揚の強行がなされ、例えば町内会合同で体育の日に運動会が開かれ、会場の校庭で国旗掲揚がなされたのに、主催者側の関係者達の家では多分、日の丸を掲げていないだろうと想像する。靖国参拝をなさる政治家のみなさんは、家でも日の丸を掲げているのであろうかと疑念が生じますね。最近とみにこの国の右傾化が囁かれているがそれにしても、旗日に日の丸を掲揚する家がめっきりと減っていることは間違いない。実態はどうなんだろうか、首相の靖国参拝に反対の人でも日の丸を掲揚する人はいる。オヤジは真面目な人だった。真面目過ぎる人だったが彼の倫理観の核に日の丸があったことは間違いない。戦時中大陸を兵士として渡り歩いた彼にとって戦争体験もなく軽々しく愛国心を語る輩に胡散臭いものを感じていたことは間違いない。彼にとって愛国心とは何だったのだろうかと、想像するがいまだによくわからない。
 陋屋の居間にオヤジが戦争中に中国人に書いてもらった墨書が掲げられている。銘は中国人で『滅私奉公』です。半間の額なので、目立つのです。いつもその下で食事をしている。僕の頭の上に『滅私奉公』です。滅私奉公とはまるっきり違う生き方をしてきたのに皮肉と言えば皮肉です。でも声高に「滅私奉公」と語る輩こそ、「奉私滅公」の輩ではないかと思う。本当にこの国を愛しているなら臆面もなくいけしゃあしゃあと「愛している」と言えるものではない。「愛」とはそう言うものでしょう。そこには「かけがいのない」せっぱつまったものがある。政治とはまるっきり縁のないものだ。
 「愛国心」は現政権を壊す力を本然的に持っているものだ。現政権に都合の良い「愛国心」は「愛国心」ではない。「愛とは不可能性」の問題だ。そのような覚悟がなくて軽々しく「愛国心」を語って欲しくない。そのような意味でこの国に“あくがれる”気持ちが真摯なものなら、韓国の人が、中国の人がイランの人が、パレスチナの人がイラクの人がイスラエルの人がアメリカの人がナイジェリアの人がロシアの人がインドの人がペルーの人がベルギーの人が…、自らの国を“あくがれる”気持ちがすんなりとわかるはずだ。政治の土俵上では括弧付きの愛国心は愛民心を要請しない。蓋し当然である。「棄民心」であろう。棄民から排除の構造が生まれる。
 しかし、僕がこのような回路で愛国心を語ると中々理解して貰えない。せめて愛国心は右翼でない、左翼でもない、それとは違う文脈で語って欲しいとの思いがあります。それは恐らく「他者を愛する」ということでしょう。国も他者、「他者を愛したい」という強い思いがあれば、その文脈での愛国心はそれぞれの民の愛国心をリスペクト出来るはずだ。そこに愛民心という通底音が国境を越えて流れているはずだ。
 愛国心のないものは日本を出て行け!」と声高に叫ぶ人はもっとも愛国心のない人だろうと言うことです。
 「愛は沈黙が似合う」、そう言うものでしょう。女、子供を愛し、他国の人を愛しその強い思いでしか愛国心が生まれない。そして、極限の状況である選択を迫られた時はその実存の場で止むに止まれぬ決断をすれば良い。それ以前での抽象論はその実存の場では意味をなさないであろう。
追伸:先ほども藤原新也HPを覗いたら今日も更新していましたね。連日アップしているとは、藤原節は全回転ですか、同年としては元気がでます。しかし、『盗っ人を非難できる者は、盗みを働いていない者に限られる』(1/26)のエントリーはメタファーとして「おばちゃん顔」を持ってくるのはやはりまずいですね。案の定、新也さん大好きのマイミクから「如何なものか」と皮肉を言われました。マイミクでのレスをこちらにも転載します。

 シンヤさんの代りに僕が謝っても仕方がないのですが、あの政治家を表現するのに、戯画化されたおばちゃんに 似ているもんだからつい口(手)が滑ったのでしょう。僕もこの段落で多分、シンヤさんのファンの方から口撃がくるんではないかと予測したのですが、大当たりでしたね(笑)。
 連日更新なんて珍しいから、余程、シンヤさん、気分が高揚しているのでしょうね。書き下ろしの原稿を書いているみたいだからそれもあるのかな…。
 でも、やはり、あわわ!って思いました。
 僕の知人のオバサンたちで、シンヤさん、大好きっていう人が多いのです。気をつけましょう。シンヤさん!

宮崎学も久し振り!

kawakitaさんのブログから知った情報ですが、1/22に日本教育会館で行われた宮崎学の公開講演会の記録が『一回目』『二回目』とアップされています。麻原オウム裁判に関する講演会です。相変わらず宮崎さんのアナーキーな物言いは同年に近いけれど藤原新也とも辺見庸とも違う。「霧の中のキツネ目の男」としてベンディングしているけれども彼の書いたものは結構愛読していました。読み出したらやめられない面白さがあるのです。最近は距離を置いて読んでいなかったのですが、久し振りにネットで読むと、う〜ん、聴かせる、まだ一度も講演に行ったことがないのですが、機会があれば聴きたいです。