後藤和智/フィギュア萌え族?

ぼくのブログを時々訪問して下さる後藤和智氏が「俗流若者論ケースファイル」シリーズをアップしました。第一回はジャーナリスト大谷昭宏氏が取り上げられています。中々気合のこもった力作です。⇒http://kgotooffice.cocolog-nifty.com/kgotolabo/2005/02/post_6.html
後藤氏のスタンスは

…私は加虐的、嗜虐的な性描写は大嫌いであるのだが、だからといってそれが犯罪に結びつくものであり、国家による規制が必要だ、とは断じて思わない。かつてはそう思っていた時期があったのだが、今はそのような考え方からは訣別している。なぜか。それは、それこそ世の中にはいろいろな人がおり、もしかしたらそのような過激な性描写が、性犯罪の抑止に役立っているかもしれないからである。それに、過激な性描写を見たから性犯罪に及んだ、という統計データもないばかりではなく、過激な性描写を見ることがすぐさま残虐な性犯罪につながるという考え方は、人間の可塑性や理性をないがしろにする考え方だからである。

とした上で、大谷氏に対して以下のような論評を試みている。

大谷氏は、「萌え」はヴァーチャルな人間関係でしか満足することのできない「今時の若者」の病理だと主張しているけれども、実際のところ、それは大谷氏が「そう思いたいだけ」なのではないだろうか。おそらく大谷氏には、最初から「今時の若者」への不満があり、その「病理」を証明したいが為に奈良事件を引き合いに出し、さらには「フィギュア萌え族」なる珍奇な概念を出したのであろう。だから大谷氏の根幹にあるのは、《生身の人間ではなく、パソコンの中に出てくる美少女たちとだけ架空の恋愛をして行く》という行動に代表されるような「今時の若者」に対する不安、怒り、そして敵愾心であり、それを排除して社会を「正常化」しようとする衝動ではないか、と思われる(そう考えれば「フィギュア」どころか「萌え」にも必然性はない)。

詳細は後藤氏のブログでロムしてもらうとして、『フィギュア萌え族』(注:大谷氏造語・参照:ホームページ移転のお知らせ - Yahoo!ジオシティーズ)なる造語を仮説してマスコミ受けするプレゼンテーションして、いわば隠喩で持って語ることが何か意味あることを言ったとのディスクールは毎度おなじみのマスコミ人のやり口ですね。問題はそんな言葉の構築でなく、地道なフィールドワークでしょう。僕自身、年齢は大谷氏に近いのに、後藤氏のスタンスを応援したくなります。実は、このブログでも『感じる人』エントリーを巡って、やりとりと、コメント欄にて『フィギュア』、『萌え』、『キャラ』、『感じない○』などについて、色々と応酬していたので、凄くタイムリーと思い、ぼくの頭の中を整理する意味で一部、転載とリンクさせてもらいました。
僕の方向性はネットが入り口であろうと、何であろうと、キャラに萌えようがフィギュアであろうが、<私>の思いが<他者>に向かう螺旋階段を登るダイナミズムを招来するものなら、何ら問題がない。『感じる心』を持った仮に『フィギュア萌え族』なら、何の問題もない。問題はそこにあるのでなくて、『感じる』、『感じない』だと思う。ぼくが恐怖を感じるのは「感じない心」と言って良い。だから、犯罪抑止の問題を考えるのであったら、「感じる人」が一人でも多く増えていくような世の中作りをすべきでしょう。他者とも問題は避けて通れないのです。本当の一人でも良い、友人がいれば問題がない。ベタでくさい表現かもしれないが、性にまつわる情報はあまりに過剰で、人の数ほど性の差異はあるという認識は当然の前提として持つべきでしょう。ロリータだとか、何々だとかそんな命名の括りをすると、個々の性の実存を捉まえることが出来ないであろう。袋小路にハマって言葉で持って言葉で説明する出口のないものになってしまう。性の実存は代替がきかない、ベタなものです。惚れるか惚れないかが問題。SMもロリータも異性愛も同性愛も、鶏姦、スカトロ、etcそれらは、全部体位の問題に過ぎないと思う。周辺をフィールドワークする前に中心をフィールドワークすべきでしょう。「惚れるってなんだ」って言うこと、勿論、人間同士に限らず、猫に惚れても、それは惚れることです。だから、『いのちを感じる心』と言った方が誤解されないかもしれない。そう、ベタに“いのちの友情”を語ること、そこを語ることを回避しては沢山の情報の収集は出来るかも知れないが何の解決の糸口も見えないと思う。
参照:http://www.miyadai.com/index.php?itemid241『宮台真司・工学院大学シンポジウム』