移動貸本屋

小学校の頃だから、1950年代になる。商家だったので、なるべく商売の邪魔にならないようという思惑もあったかもしれない。塾に通わされた。その塾は商店街の本屋さんで新刊と貸本を兼業していた。オヤジと息子が教師で子供達を教えていた。この港街は教育熱心で毎年一回、市が援助して六年生を集めて漢字と算数のコンテストを芝居小屋を借り切って行った。一等賞は市長の名入りの置時計で、二等賞以下はサラダ油とか、食材の景品が記憶にある。50年代は食料品が貴重だったのです。本屋兼塾より、生徒達はこのコンテストに参加して殆ど上位を独占した。生活用品をお土産に持って帰ったのです。僕の本屋初体験はこの塾です。授業が始る前に貸本漫画を立ち読みしました。でも、雑誌以外で新刊を買った記憶はない。『あしたのジョー』のちばてつやは五つ年上ですが、『だからマンガはやめられない』(ポプラ社)を読むと路地裏は僕にとって時代が蘇る記述になっている。

貸し本屋のある路地は、駄菓子屋のある路地とならんで、子供達のちょっとした社交の場だった。ふだんはいっしょに遊ばない男の子と女の子も、この貸し本屋の立ち読みではいつもいっしょだった。/中学生になったころから、貸し本屋にも新しいスタイルの店がはじまるようになった。「移動貸し本屋」という店だ。紙芝居屋が、マンガ本やマンガ雑誌の発行で、少しずつ人気がなくなり下町からも消えはじめたのと前後して、この移動貸し本屋がさかんになってきた。自転車の荷台に紙芝居屋と同じような大きな箱をつみ、その箱の中にはびっしりといろいろな本がならべてあった。この貸本屋が、ぼくが中学生になると自転車の町内をまわってくるようになった。

移動貸し本屋は記憶にないですね、東京の下町特有の風俗か、その当時の京、大阪あたりはどうだったんでしょうか、瀬戸内の港街では移動貸し本屋はなかったと思う。

一冊借りるのに必要なお金が五円。アイスキャンデー一本と同じだったから、いまの値段にすると五十円くらいだろう。一度借りると、二日で読んでしまわなければならない。たしか、二日に一度くらいのわりあいで町内のあちこちに自転車を止めると、町内じゅうに聞こえるくらいの大きな声でさけんだ、/「貸本屋ですが!」

今で概算すると、新中古書店の百円と似たような値段になるでしょう。でもあちらは貸し本でこちらは購入。読み終わったら持って行って、僅かな金で買取か処分してもらっているから、かっての貸し本屋のような機能を新中古書店はやっているとも言える。

この貸し本屋の大きな声を聞くと、ぼくはいちもくさんに家からとびだした。借りた本を返すためと、新しい本を借りるためだ。おくれて返すと、いくらか罰金をとられたが、そんなお金はなかったから、おくれて返したことはない。一回貸し本屋がくると、二冊か三冊ずつ新しい本を借りた。単純に計算すると、一年で三百冊から四百冊近くの本を読破したことになる。少なく見つもっても、二百冊くらいは読んでいただろう。

ちばてつやだからマンガを借りたと思ったら、マンガは殆ど借りなかったらしい。お金のゆとりがなかったのです。

父と母ががんばっていたが、生活に大きなゆとりがあるわけではなかった。五円、十円のお金もそまつにするわけにはいかない。そういうことで考えてみると、マンガは、どんなにがんばってもせいぜい三十分か一時間そこそこで読んでしまえる。せっかくお金を出すのであれば、読みごたえのある本を借りようと思った。/そこでぼくは、手あたりしだいなるべく厚い小説を借りまくった。なるべくうすい本を読みたいと思ういまの子供達からみれば、まったく逆のことだ。

ちばてつやはこの時期が一番、本を沢山読んだと言う。二日という縛りとお金の勿体無さが読書を過激に後押ししたのかもしれない。こんな読書環境は今では再現できない、後戻り出来やしない。でも、世界のどこかの国の子供達はかような読書に対する飢えを持っているかもしれない。どこかの国の図書館は有料らしい。有料もいいかもしれない。有料なら返却期間までに一生懸命、読み切ってしまうようになるかもしれない。少なくとも返却期限がオーバーしたら、罰金を取るシステムは賛同してもいいかも。