ガラス瓶のジャーナリズム

佐伯剛さんの『柔軟な公共性』についてを読むと、新聞社とブログについてのちょいとしたトラブルに触れていますが、色々と考えさせてくれます。*1ちょうど、同日(6/17)に武田徹さんがオンライン日記大塚久雄の講義を聴いたおり、ノミの芸についての逸話で、こんなことを書いている。引用します。

[…]ノミを入れた皿の上に透明なガラス瓶をかぶせてしまう。そうするとノミは最初は跳ねてガラス瓶に盛んに当たる。しかしだんだん学習して当たらなくなり、そのうちガラス瓶をとっても外に飛び出さないように飛躍距離を小さくするのだと言う。それを見せ物にするらしい。どんな場面で大塚先生がその話をしたのかも忘れてしまった。しかし枠にはまった人間が次第にその枠に合わせるように努力して自分の器自体を小さくし、やがては枠にはめられじうにも摩擦を起こさないよう自粛してしまうことを喩えていたのだとは思う。日常生活を見渡すと色々考えさせられる話だ。ガラス瓶に当たるといたいので、いつのまにか大きく跳ばなくなっている、そんな生活を知らずにぼくたちはしている。ジャーナリズムもそう。瓶の中のノミ。[…]

 公共性はノミにとってガラス瓶なのであろうか、新聞社という組織も…。でも、組織に属しない一匹狼、まあ、ここでは一匹蚤であろと、手づくりであろうとも、それなりのガラス瓶は持っていると思う。双風亭日乗の連日の壊れた芸能人と報道に関するコメントはとても興味があって大塚久雄の[瓶の中の蚤]の例証で言えば、マツケンとヒトシ君は功成り、名を遂げたにもかかわらず、自らの芸風の破綻を恐れずジャンプしたということでしょう。
「そんなもん、もういいや」成程、ナットクです。
ノミと違って、そんな大きな飛躍が僕らには出来るはずだということでしょう。そのためにはある種のニヒリズムが踏み台になる。蚤にはそんなニヒリズムはない。繭の中の蛹は選択肢は一つしかないけれど、人は繭の中で天の夢を見る事が出来る。蝶になりおおせることが出来る。ニヒリズムは空だからこそ、飛ぶ力を持ち得るのでしょうか。マツケンサンバはジャーナリズムに対する批評性を持っていますね。
ニヒリズムヒューマニズムも手垢にまみれて誤読されやすいが、僕の中では共存している。それは“死”という未来の視点からヒューマニズムであって、不死を仮構したOSをインストールした人間主義ではない。死者を隠蔽するヒューマニズムヒューマニズムではない。滅びは必然です。だからこそ、生が光彩を放つ。
 「どうでもいいもの」にとらわれるのはよしにしましょうや、オレ!