万引きの屁理屈

 鼠小僧次郎吉は義賊と言われたけれど、理屈は言わなかったろうなぁ…、自己正当化もしなかったはずだ。もし巷間流布したとおりなら止むに止まれぬ鼠小僧の激情のなせる業だと信じたい。

共同体に道徳をもたらす元の力には、まだ言葉がない。この力は、それぞれの共同体を超えた唯一のものである。が、人間には共同体が要る、という事実から離れては存在していない。この力は潜在的ではあっても、抽象的ではない。抽象的な、ただ学問上考えられるだけの道徳、というようなものは実際にはないだろう。あっても、そんなものは誰も意に介さないだろう。
 言葉のない何かしらの力に引っ張られ、鼓舞されて、人は電車で席を譲る。ここで三列にお並び下さいという表示に従ってホームで並ぶのとは、それは明らかに違う。なるほど、電車でお年寄りに席を譲りましょう、とはよく聞くセリフだが、私たちはそのセリフに従って譲るのではない。そんなことは恥ずかしくてできない。ほんとうは、譲るという行為自体はどうでもいいのである。相手が内心それを有難がっているかどうか、そもそも定かではない。にもかかわらず、私たちは突然倫理的に振る舞いたくなり、振る舞ってしまう。その行いが、倫理的たりうるかどうか、しかとわからなくても。つまり、この欲求は、共同体のあれこれの道徳律とは関りなく起こる。
 欲求は、その出口を見出すようにして、突然何かの振る舞いに到る。そう言ってもよい。
 ゴッホは、絵かきになる前に、牧師の世界から追放されてきた人である。追放の理由は、常軌を逸した彼の献身ぶりにあった。炭鉱に赴き、説教は何ひとつせず、貧しい炭鉱夫たちに自分の衣服も食べ物も寝る所さえも与えて半死半生になった。教会組織が、そういう危険人物を牧師として許しておくはずがない。ゴッホを駆り立てたものは、教会でも聖書でもなかった。それはひとつの強い、極度に激しい欲求であり、彼はその欲求の出口を探して驀進しただけである(p25〜6)ー前田英樹『倫理という力』(講談社現代新書

 鼠小僧次郎吉の激情はここに言うゴッホの激情の似たものと信じたいのです。勿論、僕には鼠小僧やゴッホの行為をみて、リアルタイムに身近に居たら、共同体の異物としての避けていたかもしれない。ただ、とても敵わない人だと、どこかにリスペクトする気持ちが無意識でも、かたちなく沈殿していたはずだ。それは理屈ではない。
 こんな鼠小僧のことを考えたのはウラゲツ☆ブログで万引きを正当化するエントリーを発見したからです。別に万引きは窃盗罪だとして法律を持ち出さなくとも、資本制の社会であろうと、十戒を持ち出さなくとも「人を殺してはならい」と同様に「盗むことなかれ」はそんな激情の水位にある。だからこそ、鼠小僧は捕まれば理屈を言って抗弁しない。
http://hotwired.goo.ne.jp/news/culture/story/20050830202.html
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