わっしょい、♪

 昨日、秋祭りで子供たちと神輿をかつぎ、町内を巡行しました。子供たちと全身で、「わっしょい♪、わっしょい♪」と掛け声のやりとりをしながら、しだいに盛り上がって身体の直接の交歓をしたかのようなハイな気分になりました。手作りのちっちゃな神輿なんですが、大人達が半年もかけて製作した立派なもので、市場価値は自治会の数年分の予算に匹敵する○百万円すると思いますが、色々工夫して、ボランティアで、一回の巡行の「御祝儀」でお釣りが来て、今ではお神輿のために自治会の財政が潤うという嬉しい事態になっています。
 終わってから世話人が僕のところに来て感動したとオーバーに言うのです。何でかって言うと「今回始めて子供たちがわっしょい、わっしょい」て声を出したというのです。
 今までは黙って、巡行して太鼓を叩き、神輿を担ぐだけで、大人しかった、でも今回初めて、子供たちがデッカイ声を張り上げて唱和したと嬉しそうに言ったくれたわけ。そのきっかけの犯人は僕なんです。そりゃあ、そうでしょう、二時間以上も歩くのですから、デカイ声を張り上げなければ、退屈でしょう。
 僕は子供たちにハッパをかけたわけ、子供たちは面白がって、感応、普通、街の通りを歩きながら大声を出すチャンスは滅多にない、僕は笛ももらったので、
 「ピピ♪、ピッピ!、わっしょい♪、わっしょい♪」と騒いできました。堂々と大声を張り上げながら街を練り歩くことが出来るのですから、踊る阿呆にならなくてはソンです。

一人の閉ざされた身体の閾は孤独であるが故に何かを生み出すが、又、何かを失う。
入れたり出したり、変幻自在の身体と言葉のやりとりは、
時としてクリーニングが必要かもしれない。

 『身体の言い分』を聴くことはとても大事。聴くためには、まず身体を声を解放さす。「身体が喋る」のです。言葉はいつも言語障害を内蔵している。その痛々しい身体と言葉のズレを生きる病は言葉に命を与える孤独な作業として避けて通れないものかも知れない。その意味で誰もが吃音者の回路を潜り抜けて発話行為パロール)を、再現できない一回限りのものとして、発しているのかもしれない。そうでなければ、誰がその発話に感応出来ようか。
 踊ってもよかったのです。子供たちは、ヘンな馬鹿な大人が騒いでくれれば喜んでくれます。
 子供の目線で遊んでくれる大人が減ったのでしょうか、大人たちが結構分別な行儀良さで、儀式ばるから盛り上がらないので、身体毎、憂さ晴らしでいいのです。街中にこだまするように身体でわっしょいと言っちゃえば問題ないのですが、中々言えない、大人たちはシンドイ生き方をしています。子供って騒ぐのは大好きです。僕は一緒に騒ぎました。楽しかったです。