海岸通りの夕日

 今、評判の映画、ALWAYS 三丁目の夕日は1958年の下町風景をノスタルジックに描く。ぴぴさんのシネマ日記は僕の郷愁を突くので、一応、映画館前には二度、行ったのです。でもいつも満員で席があっても前列のみとかで、断念して代りに中国映画『世界』イラン・イラク映画『亀も空を飛ぶ』を見たのですが両作品とも予想以上の出来栄えでそれなりに満足したのですが、やはり、『ALWAS 三丁目の夕日』は気になる。僕のPCの脇に昭和30年代の写真が一葉飾られている。モノクロで画像アップしてもいいのですが、やはり個人情報保護で差し控えます。半世紀近い前の家族+近所の人たちの写真です。この頃、戦艦大和を生んだK市の海岸通りで僕の生家は小さな乾物問屋をやっており、その店先で犬一匹、従業員、家族、路地裏の長屋の人たちがそれぞれの格好で写っているのです。左脇に購入して間もないマツダの三輪トラックが見えている。この店は二階が住居で僕たち父母兄弟姉妹が住んでいたのです。職住同居で店の手伝いは時々やらされていました。僕は12歳くらいでしょう。でも、商店街にある本屋さんのオヤジ一家が先生となる学習塾に通っていましたので、この30年代は結構、教育熱も盛んだったのでしょう。かっての軍用道路だった店の前の大通りを挟んで大きな芝居小屋があったのですが、一年に一回、全市の学童(小学生)をあつめて、算数と書き取りのコンテストがありました。優勝、入賞にはそれぞれ、景品がつくのですが、それが面白い、時代を反映してか、天ぷら油とか、実用的なものなのです。でも優勝者だけは市長のサイン入りの置時計でした。妹がもらいましたが、捨てに捨てられず、長い間、家にありましたね。参加者は学校から、塾からと公と民とが合同です。僕たち兄弟姉妹は小学校代表でなく、塾代表で参加したのです。今、考えれば不思議です。
 そして、1960年、この店は倒産してしまうのです。写真を見ると『株式会社 ●山●商店』になっている。恐らく株式会社になることで、少しは商売が延命したのかもしれない。でも、大きな時代の流れに抗し切れず、丁度、60年安保の樺美智子が亡くなったあの夏、僕の一家はこのK市を離れ大阪に引越し。そんな私的な物語が僕の30年代であり、多分、この映画を見れば、僕の深いところを揺り動かすのは目に見えているのです。
 でも、散々、その時代のことを思い浮かべ、書きなぐったこともあるので、西岸良平の『三丁目の夕日』は時々読んではいましたが、敬して遠ざける、淫してはいけないなぁと、まあ、レアードさんの『毒に満ちた映画かもしれない』というコメントはよくわかる。DVDで見ることになりそうですね。
 今、子ども達をめぐる犯罪が報道されていますが、僕たち子ども達は港を一望出来る丘にある中学校の校庭でよく草野球をしていました。放課後も開放されていたのです。今では安全管理上考えられないと思いますが、港の立ちん坊(港の沖仲士で仕事にあぶれた人を言う)、時にはヤクザの(この街は映画仁義なき戦いの土地でもありました)末端のお兄ちゃんも紛れて、着たきり雀の格好で野球をするのです。こと野球となるとみんな童心に返って遊ぶのです。夕暮れまで走りまわる。そんな風に学校の校庭は町の人々に開放されていたのです。でも、別段、問題は生じなかった。通常、アブナイ仕事をしているアンちゃんでも、こども達にとって気のいい遊び仲間でした。家族のものたちもそんなことで心配しない。  様々な職種、民族、進駐軍がこの街にやってきて「混血の街」とも言われましたが、この国の30年代の風景を縮図している象徴的な街だと思います。僕は近所では有名な迷い子でよく迷い子になりました。一人でどこかへ行ってしまうのです。それで、街の誰かに発見されて泣きながら連れて帰られる。この時代、深い絶望が日常的にありました。そんな事件を見聞きし、僕自身の中にも子どもながら絶望を蔵していたと思う。でも、裏返しに大いなる希望が見えていた時代だったと思う。担任の教師が中学生に向かって「革命」を語っていたし、世界は近々変わるという熱気が渦巻いていました。
 確かに当時と今を比べると犯罪件数は減っているかもしれない。でも、今日、黒猫房主さんがアップしている『住居侵入罪』は犯罪としてカウントされなかったでしょう。当たり前過ぎて、そんなヒマはなかった。当時、この街は「組織暴力一掃」のキャンペーンを行っていたと思う。あの時代にあってこの時代にないものは、語弊があるかも知れないが荒っぽく言えば、「絶望」と「希望」だと思う。どちらもない「のっぺらの地平」から、最近のわけのわからぬ犯罪が頻出している気がします。

三丁目の夕日映画化特別編 (ビッグコミックススペシャル)

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