ペシミストの勇気について

石原吉郎詩文集 (講談社文芸文庫)石原吉郎「昭和」の旅オンライン書店ビーケーワン:〈野宿者襲撃〉論
 マイミクのshohoujiさんが、鈴木謙介の「有料化する公共圏」のテキストを紹介していたので、読んでみました。「安全・安心」を「安全」/「安心」と仕分けして考えるのはその通りでしょう。ソーシャルセキュリティからセキュリティへと移行している、そのことに関して「公共空間の崩壊と新たな共同体主義」を含むテキスト、「生田武志のLASTDATE」も紹介してくれましたが、一貫して野宿者の視点から見据えようとした力作です。僕は読み進んでいる中に下のごとく石原吉郎が鹿野武一について書いた『ペシミストの勇気について』の原文が読みたくなって、図書館から三冊借りました。多田茂治著『石原吉郎「昭和」の旅』(作品社)、『石原吉郎詩集』(現代詩文庫)、『続・石原吉郎詩集』(現代詩文庫)です。

 バム地帯のようた環境では、人は、ペシミストになる機会を最終的に奪われる。(人間が人間でありつづけるためには、周期的にペシミストになる機会が与えられていなければならない)。なぜなら誰かがペシミストになれば、その分だけ他の者が生きのびる機会が増すことになるからである。ここでは「生きる」という意志は、「他人よりもながく生きのこる」という発想しかとらない。バム地帯の強制労働のような条件のもとで、はっきりしたペシミストの立場をとるということは、おどろくほど勇気の要ることである。なまはんかなペシシミズムは人間を崩壊させるだけである。ここでは誰でも、一日だけの希望に頼り、目をつぶってオプティミストになるほかない。(収容所に特有の陰惨なユーモアは、このようオプティミズムから生れる)。そのなかで鹿野は、終始明確なペシミストとして行動した、ほとんど例外的な存在だといっていい。
 後になって知ることのできた一つの例をあげてみる。
 たとえば、作業現場への行き帰り、囚人はかならず五列に隊伍を組まされ、その前後と左右を自動小銃を水平に構えた警備兵が行進する。行進中、もし一歩でも隊伍を離れる囚人があれば、逃亡とみなしてその場で射殺していい規則になっている。警備兵の目の前で逃亡をこころみるということは、ほとんど考えられないことであるが、実際には、しばしば行進中に囚人が射殺された。しかしそのほとんどは、行進中つまずくか足をすべらせて、列の外へよろめいたために起っている。厳寒で氷のように固く凍てついた雪の上を行進するときは、とくに危険が大きい。なかでも、実戦の経験がすくないことにつよい劣等感をもっている十七、八歳の少年兵にうしろにまわられるくらい、囚人にとっていやなものはない。彼らはきっかけさえあれば、ほとんど犬を射つ程度の衝動で発砲する。
 犠牲者は当然のことながら、左と右の一列から出た。したがって整列のさい、囚人は争って中間の三列へ割りこみ、身近にいる者を外側の列へ押し出そうとする。私たちはそうすることによって、すこしでも弱い者を死に近い位置へ押しやるのである。ここでは加害者と被害者の位置が、みじかい時間のあいだにすさまじく入り乱れる。
 実際に見た者の話によると、鹿野は、どんなばあいにも進んで外側の列にならんだということである。明確なペシミストであることには勇気が要るというのは、このような態度を指している。それは、ほとんど不毛の行為であるが、彼のペシミズムの奥底には、おそらく加害と被害にたいする根源的な問い直しがあったのであろう。そしてそれは、状況のただなかにあっては、ほとんど人に伝ええない問いである。彼の行為が、周囲の囚人に奇異の感を与えたとしても、けっしてふしぎではない。彼は加害と被害という集団的発想からはっきりと自己を隔絶することによって、ペシミストとしての明晰さと精神的自立を獲得したのだと私は考える。
 翌年夏、私たちのあずかり知らぬ事情によって沿線の日本人受刑者はふたたびタイシェットに送還された。私たちのほとんどは、すぐと見分けのつかないほど衰弱しきっていたが、そのなかで鹿野だけは一年前とほとんど変らず、贖罪を終った人のようにおちついて、静かであった。(111頁〜113頁)

 メーデー前日の四月三十日、鹿野は、他の日本人受刑者とともに、「文化と休息の公園」の清掃と補修作業にかり出された。たまたま通りあわせたハバロフスク市長の令嬢がこれを見てひどく心を打たれ、すぐさま自宅から食物を取り寄せて、一人一人に自分で手渡したというのである。鹿野もその一人であった。そのとき鹿野にとって、このような環境で、人間のすこやかなあたたかさに出会うくらいおそろしいことはなかったにちがいない。鹿野にとっては、ほとんど致命的な衝撃であったといえる。そのときから鹿野は、ほとんど生きる意志を喪失した。
 これが、鹿野の絶食の理由である。人間のやさしさが、これほど容易に人を死へ追いつめることもできるという事実は、私にとっても衝撃であった。そしてその頃から鹿野は、さらに階段を一つおりた人間のように、いっそう無口になった。
 鹿野の絶食さわぎは、これで一応はおちついたが、収容所側は当然これを一種のレジスタンスとみて、執拗な追及を始めた。鹿野は毎晩のように取調室へ呼び出され、おそくなってバラックに帰って来た。取調べに当ったのは施という中国人の上級保安中尉で、自分の功績しか念頭にない男であったため、鹿野の答弁は、はじめから訊問と行きちがった。根まけした施は、さいごに態度を変えて「人間的に話そう」と切り出した。このような場面でさいごに切り出される「人間的に」というロシア語は、囚人しか知らない特殊なニュアンスをもっている。それは「これ以上追及しないから、そのかわりわれわれに協力してくれ」という意味である。「協力」とはいうまでもなく、受刑者の動静にかんする情報の提供である。
 鹿野はこれにたいして「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない。」と答えている。取調べが終ったあとで、彼はこの言葉をロシヤ文法の例題でも暗誦するように、無表情に私にくりかえした。(中略)
 私が知るかぎりのすべての過程を通じ、彼はついに「告発」の言葉を語らなかった。彼の一切の思考と行動の根源には、苛烈で圧倒的な沈黙があった。それは声となることによって、そののっぴきならない真実が一挙にうしなわれ、告発となって顕在化することによって、告発の主体そのものが崩壊してしまうような、根源的な沈黙である。強制収容所とは、そのような沈黙を圧倒的に人間に強いる場所である。そして彼は、一切の告発を峻拒したままの姿勢で立ちつづけることによって、さいごに一つ残された「空席」を告発したのだと私は考える。告発が告発であることの不毛性から究極的に脱出するのは、ただこの「空席」の告発にかかっている。
 バム地帯での追いつめられた状況のなかで、鹿野をもっとも苦しめたのは、自動小銃にかこまれた行進に端的に象徴される、加害と被害の同在という現実であったと私は考える。そして、誰もがただ自分が生きのこることしか考えられない状況のなかで、このようないたましい同在をはっきり見すえるためにも、ペシミストとしての明晰さを彼は必要としたのである。
 おそらく加害と被害が対置される場では、被害者は「集団としての存在」でしかない。被害においてついに自立することのないものの連帯。連帯において被害を平均化しようとする衝動。被害の名における加害者的発想。集団であるがゆえに、被害者は潜在的に攻撃的であり、加害的であるだろう。しかし加害の側へ押しやられる者は、加害において単独者となる危機にたえまなくさらされているのである。人が加害の場に立つとき、彼はつねに疎外と孤独により近い位置にある。そしてついに一人の加害者が、加害者の位置から進んで脱落する。そのとき、加害者と被害者という非人間的な対峙のなかから、はじめて一人の人間が生まれる。「人間」はつねに加害者のなかから生まれる。被害者のなかからは生まれない。人間が自己を最終的に加害者をして承認する場所は、人間が自己を人間として、一つの危機として認識しはじめる場所である。
 私が無限に関心をもつのは、加害と被害の流動のなかで、確固たる加害者を自己に発見して衝撃を受け、ただ一人集団を立去って行くその「うしろ姿」である。問題はつねに、一人の人間の単独な姿にかかっている。ここでは、疎外ということは、もはや悲惨ではありえない。ただひとつの、たどりついた勇気の証しである。
 そしてこの勇気が、不特定多数の何を救うか。私は、何も救わないと考える。彼の勇気が救うのは、ただ彼一人の「位置」の明確さであり、この明確さだけが一切の自立への保証であり、およそペシミズムの一切の内容なのである。単独者が、単独者としての自己の位置を救う以上の祝福を、私は考えることができない。
 いまにして思えば、鹿野武一という男の存在は私にとってかけがえのないものであった。彼の追憶によって、私のシベリヤの記憶はかろうして救われているのである。このような人間が戦後の荒涼たるシベリヤの風景と、日本人の心のなかを通って行ったということだけで、それらの一切の悲惨が救われていると感ずるのは、おそらく私一人なのかもしれない。(114頁〜117頁)

 『続・石原吉郎詩集』(現代詩文庫 120)から、長文を引用しました。殆ど、「生田武志のLASTDATE」からのテキスト「口実としての自己責任論」から参照したものです。生田武志の『<野宿者襲撃>論』で生田が見据えているものは鹿野が見据えていたものの問いなのでしょうか。