団塊フリーター計画

団塊フリーター計画 (生活人新書 209)オンライン書店ビーケーワン:団塊フリーター計画
 本書のキモは著者が後書きで書いているように

 若年フリーターの問題は、組織人としての訓練を受けないまま浮遊する労働力として固定されてしまうということだ。そうだとすれば、経験も訓練も積んだ団塊世代がフリーターになって、若年フリーターとポジションをチェンジすればいいんじゃないかという思いつきからのスタートだった。

 そのようなデザインは確かに効率的で互いに問題点を補完する最適なものかもしれない。要は団塊世代の会社人間達をミーイズムではない、「個」として目覚めさせ、社会的人間になってもらい、正社員になりたい若者達にはどんどん正社員になってもらうということでしょう。(それでもフリーターの方がいいという若者達もいると思いますが、)

 かっては、工場のラインに従事した工場労働者が、熟練するとともにグループをマネージし、工場長になって、そのうち経営に参画してゆくキャリアプランがあった。今では、工場のラインは派遣や請負、ときに偽装をして丸投げするという風土が出来上がっている。じっくり企業内で人材を育てるという文化は失われた。(120頁)

 僕たちや団塊の世代達まではキャリアスタートはアルバイトからで、経営に参画したという事例に事欠かない。でもそれは中小企業を核として成長企業で社会全体が力強く成長していたわけでしょう。大企業、銀行、学校、役所に就職したいと言う人は僕の周りにあまりいなかったですね、つまらなそうだということもあったけれど、初任給がそんなによくはなかった。むしろ中小企業の方が待遇がよかった。会社の規模は小さいけれど、目標は日本一の給与を支給出来る会社にすることだと、大言壮語するちっちゃい会社も多かった。
 会社に就職しなくてアルバイトで穴掘り作業をしても大企業に就職する賃金に負けない日当をもらったから、晴耕雨読(雨読でなく雨遊か…)で気ままに暮らしてゆけたのです。団塊の世代の連中は最初から確固たる人生設計があって、会社人間になったわけではない、むしろ気分は「プータロー」「フーテン」に憧れ、でもドロップアウト出来ない、やるせなさ、空虚を抱え込んで取りあえず、就職した。(そんな人が多数だったと思う)
 在学中から就職活動をするなんて、ありえなかった。まあ、大学の事情も違っていましたからね、僕らの世代では大学に進学するのが20%位だったのです。大学が就職するためのツールであると学生も教師も考えていなかった。
 今思うと、大学進学を諦めて高卒で大企業に就職した人が多かった。ヘタに大学を卒業すると、総合職で大企業の就職は狭き門になる。だから、中小企業。
 僕の場合も、筆記試験のない面接だけの中小企業に採用されたが、初出社する前に、倒産しましたね、新興企業が表れたり消えたりしていたそんな時代背景だったのです。
 そんな風になってもショックは受けなかった。別の中小企業に受ければよかっただけの話です。要は正社員になりたいと思えば正社員になれたということです。中小企業の社員ではなく、どうしても大企業の社員になりたいと思えば、大学なんかに進学しないで、集団就職、高卒で就職する。その方が窓口が広かったのです。
 大体、中小企業なんて組合なんかなかったですね。まあ、後年、就職した本屋が会社更正法の適用になり、やむなく自分たちで組合をつくりましたがね。上部団体にも所属しなく、民間アパートに事務所を作ったささやかなものでしたが、活動として著しい成果を上げました。更正会社になったのに、従前より待遇がよくなったのです。小売業は日銭が入りますから、逆に更正会社になることで、やる気の動機付けが出来たみたいだし、今まで、店間の従業員の交流がなかったのに、組合運動を通して社員同士の繋がりが深まったわけです。社員総会を開いて、表参道をデモ行進なんかしました。
 武田徹さんが『JAL労組:無断で客室乗務員の容姿などの情報集め…流出(MSN)』の記事を書いているが、僕たちは既成の「組合」そのものに抵抗はあったのです。だからこそ、絶対上部団体の傘下には入らないことが了解されていましたが、御用組合も断固拒否する姿勢は貫きましたが、それを維持するのは難しい。
 多分新しい時代に相応しい連帯って、延々と続く大きな課題なんだと思う。もしそのような連帯を取り込む受け皿を持ち得る政党があるとしたら、本書の島内晴美著『団塊フリーター計画』を党のマニフェストとして掲げることは出来ると思う。既成の組合では無理でしょう。

 年金も将来も心配することのない世代こそフリーターにふさわしい。その代わり、年金保険料も健康保険料もしっかり納めなくてはいけない若年フリーターは、正規雇用者に回り、団塊世代がうんざりするほど経験した会社生活に入ってもらう。これで、団塊世代の老後も安泰だ。(121頁)

 なんか、調子が良すぎるところもありますが、要はWinーWinの関係性に持ってゆくことでしょう。。どちらかを犠牲、搾取した関係作りは結局、暴力に帰着するしかない。そんなものは維持するに膨大なコストがかかるだろうし、いつか破綻する。そして本当に本物の暴力、戦争へと突き進むようになるかもしれない。勝ち負けではなく、利用し利用される関係、そんなに難しい関係作りではないとは思うのですが、風の旅人のブログで、『相手にだけ、誠意や親切やマナーを要求する傲慢』を読むと、そうでもないなぁと暗澹たる気持ちになりますね。結局、彼、彼女等はそうすることで、益々果実を遠ざける。自業自得だと切り捨ててもいいのですが、せめて自己相対化の学習をして欲しい。果実はソッポを向くと落ちてくるものです。そういうこともあり得るのです。引いたり押したり、結局、最後の拠り所は「コミュニケーション」しかない、そう書くと、「システム」をないがしろにするのかと言われそうですが、両方がともに大事だと言うしかない。あるシステムの構築はせめて、Win−Winの気分がないと、実現は出来ない。暴力を回避するならば…。