ゴミ出し問題と環境管理

東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性
 東浩紀北田暁大『東京から考える(格差・郊外・ナショナリズム)』(NHK出版)は考えるヒントが沢山あって、とても刺激されました。
 『ゴミ問題』は本書の中で余談の余談として語られているのですが、地元の暮らしの中で「ゴミ減量対策」について少し動いているので、気になってメモ引用してしまいました。ゴミって昔から情報の宝庫で、今ではやっていないかもしれませんが、本屋さんが出店したい、するとき、どのような棚陳列をしようかと市場調査をやるときに、商圏住民のゴミ解析はとても大事な資料だったのです。

東 住民がゴミをどう出すか。これはイデオロギーには何の関係もないけれど、実はここには、今後注目されそうなリサイクルとセキュリティのふたつの要素が関係している。東京都のゴミ処理問題という点で、マクロな行政にも関係しています。そういう点で、いわゆる「公共圏のネオリベ化」があるていどイデオロギー中立的に進行することを示す、いい事例になると思うんです。
 そもそも、僕たちはいま、きわめてずさんな方法でゴミを出している。何もセキュリティをかけず、ただ集積所に置くだけです。だからこそ、生活ゴミから個人情報が抜かれたり、資源ゴミが不法業者に回収されたりする。僕はこれは、将来は大きなリスク要囚だと見なされるのではないかと思います。それを合理化するのは簡単で、たとえばゴミ袋に全部無線タグをつけーーこれはきわめて安価でできるので現実的ですーー、それをサービスの契約者名で認証しないと回収されないようにしたうえヽ集積所はセキュリティゲートとカメラで管理し、その整備に必要なコストは有料化でまかなえばいい。カメラは、ゴミを出す人間のルールや分別を監視するとともに、ゴミが不当に奪われないかも監視する。
北田 ゴミ袋にタグをつけるのは、遠からず実現しそうですね。
東 むろん、無料サービスも残るでしょう。しかし、有料サービスと無料サービスの階層化をきっちりとやって、たとえば、月三〇〇〇円くらい払うと二四時間ゴミを出せる、個人情報の処理も責任もってやってくれる、みたいな感じにすれば、契約する家庭も多いんじやないかと思います。ゴミ袋についているタグを自宅のパソコンで認証して、街角に設置されているゴミ集槙所に行くと二四時問ゲートが開いてゴミが出せる、そして自分が出したゴミがいつどこで処理されたか追跡できるとなれば、これはとても「安心」「便利」でしょう。逆に、行政が無料で提供する最低限のゴミ回収は、分別も非常に面倒で、回収時間も限られており、しかも生ゴミでさえ週一回ぐらいしか回収されない。行政の市場化テストも着々と進行していることだし、数十年後にそういうふうになる可能性は十分あると思います。
北田 少なからぬ住民は賛同するでしょうね。たしかにゴミ出しってけっこうシビアな「政治」的出来事だと思います。キチンと分別したうえで決められた時間に決められた場所に出さなくてはならない。それは文句なく「正しいこと」で、その自明の正義にはだれも逆らえない。しかし、考えてみればひとびとの生活パターンをこれほど拘束する制度もない。生活スタイルによって、どんなゴミがいつどのくらい出るか、どういうタイミングで捨てたいと考えるかは全然違うはずなのに、とにかく一律同じルールに従わなくてはならない。都市という場においては、他人に迷惑をかけなけれぱ、基本的に隣のだれが何をしていようともどんな趣味を持っていようとも構わないことになっている。どんなにだらしない生活を追っている大学生でも、生活リズムぐちやぐちやの漫画家も生きる権利は与えられているわけです。ところが、そんな大学生や漫画家でもゴミ出しだけは学校時問的な拘束に従わなくてはならない。これだけ生活スタイルが多様化している状況で、考えてみれば「異常」なことと言えるかもしれない。東さんの言うゴミタグづけのシステムは、そういう状況を「正しく改善」することになる。これまた入間工学が多様性を担保する、ということの事例ですね。
東 そうですね。将来の都市風景を考えるときに、重要なのは意外とそういうところだと思うんです。こういうゴミ出しの問題なんて、下北沢でも秋葉原でも、みな共通して進んでいきそうじやないですか。先ほど、物理的な環境と仮想的なコミュニケーション、工学的管理の圏域と人間的性の圈域を切り離して共存させるのがポストモダンの原理だと言いましたが、[趣味」や[職能」による多様性は結局は都市の上部構造でしかなく、物理的=工学的管理のレベルでは着々とセキュりティ化、環境管理化が進んでいく。ゴミ出しはその象徴ですね。そんな感しがします。
北田 それをとどめることはできない……。うーん、とても納得してしまうのだけど、僕のなかの入間的な部分が「納得するな」と言っている(笑)。環境管理化の趨勢に、多様性をもって反論しても、反権力という観点から反論しても、なかなかうまくいかない。では、「個性のある街」というのはたんなるノスタルジーでしかないのか。……たぶんそうなんでしょう。だとしたら、僕としてはそのノスタルジーの権利というものを考えてみたい。
東 ノスタルジーの「権利」、これもまたとても北田さん的な問題意識ですね。すごくよく分かります。

 最終章の『東京からネーションを考える』は東京を逸脱してシリアスな問題を取り扱っている。このような大きな問題は僕の手に余るところがあるので、コメントは保留。じっくり考えてみます。