動的平衡(dynamic equilibrium)♪吸って、吐いて

オンライン書店ビーケーワン:生物と無生物のあいだ
 先日の『談合社会から環境管理社会?』のエントリーで僕は「監視」と「自由」は共存しているのです、という文脈で僕は着地点を探しているのです。と書きましたが、
 恐らく身体で言えば「吸う」と「吐く」のバランスであろうけれど、ひょっとして、僕やこの国の「振る舞いの癖」は「吸う」が過剰で、「吐く」が不足ではないかと思う。
 同居の老母は卒寿なのに、足腰は弱いけれど、僕より元気なのは、毎日、家近くのカラオケ喫茶へ行っているからだと思います。驚くことに懐メロではなく、新曲なのです。仲間たちと新曲を覚え合う。僕は自他ともに認める音痴なので、このカラオケ喫茶店に近づかないようにはしているのですが、音痴であろうとも何であろうとも、声を出すことはいいことですね。
 茂木健一郎さんの英詩朗読のチャレンジには、ぶっ飛びました。「カラオケ」が「朗読」ならぬ、「語り」(騙り)までのキャパを持った、「吐く文化」に変換して、それぞれが、思考停止しないで、イシューする「吐く」の強度が増せば、より多く「吸う」ことも出来るようになり、これこそが、「美しい」という名に値する「吸う」、「吐く」の螺旋階段をより高みに登る一歩となり、「より美しい眺望に遭遇する驚き」(クオリア)を手に入れることが可能となるのではないか。
 福岡伸一の『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)を、今、ゆっくりと読んでいるのですが、とても素晴らしい警句が挿入されている。
秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない。
生命とは動的平衡にある流れである

そしてただちに次の問いが立ち上がる。絶え間なく壊される秩序はどのようにしてその秩序を維持しうるのだろうか。それはつまり流れが流れつつも一種のバランスを持った系を保ちうること、つまりそれが平衡状態(イクイリブリアム)を取りうることの意味を問う問いである。(p168)

 松岡農水相にも「もっと吐いて」欲しかった。
 「吸ってばかりいると」生命は悲鳴をあげる。時として沈黙は美徳ではないのです。饒舌が美徳でもあり得る。
 恐らく脳は「沈黙」も「饒舌」も要求する。
 「吸って」、「吐いて」、脳、身体は生きている。