国家と資本

権力の読みかた―状況と理論『国家とはなにか』自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)リバタリアン宣言 (朝日新書)
 萱野稔人の『国家と資本の関係をどうとらえるか?』を読みました。先日、僕は蔵研也の『リバタリアン宣言』のbk1書評で、リバタリアニズムは弱者を支える理論武装に成り得るかもしれないと、「上は市場原理、下は談合(助け合い)」の下流リバタリアン宣言をします。」と書いてしまいましたが、甘いのではないかと、疑念があったのですが、やはり、ちょっぴりシリアスなコメントが入りましたねぇ、僕がレスしたコメントを本文にあげます。

ありがとうございます。自分で「弱者的リバタリアニズム」のようなことを書きましたが、やはり無理があるんではないかと、自分で自分をいちゃもんつけたい部分がありますねw。
と言うのは森村進の『自由はどこまで可能かーリバタリアニズム入門ー』(講談社現代新書)のbk1書評で、小田中直樹さんが、結局、リバタリアニズムは「強者の理屈」だと書いていますが、そうかもしれないと僕自身揺らいでいるところがあります。ただ、蔵さんのリバタリアニズムとどう違うのか、そのあたりの検証が大事だと思うのですが、そこまでの深い研究は学者さんにお任せいたします。でも、弱者を取り込んだWIN&WINの施策は市場原理(欲望)を補完するものとして、入れ替自由のバックヤード(公平な社会的基盤)は絶対必要ですよね。でも、そのことが一番難しい。そこをちゃんとしないと、蔵さんのリバタリアニズムも「強者」にいいように利用されかねない。

 萱野さんは、そんな甘さを冷笑して「国家と資本を対立したものとして考えるような発想」であって、【グローバリゼーションが国家を消滅させる?】なんて、ちゃんちゃらオカシイと書いているわけですよ。蔵さんや、森村さんのリバタリアニズムの文脈はその延長線上で無政府資本主義であるけれど、どうやら国家も資本も二人三脚で仲良く突っ走っている。今は、そんな事態でしょう、だからこそ、グローバリゼーションとは、〈暴力への権利〉と〈富への権利〉という二つの〈権利〉がともに再規定されていくプロセスにほかならない、と。萱野さんに言われてしまう。ネオリベに対抗する軸としてリバタリアニズムがあるとしたら、哲学的リバタリアン宣言をしている東浩紀の『情報環境』の仕事で何らかの糸口があるのではないかと期待しているわけです。
 参照:波状言論>情報自由論