エコビレッジとは、

 明治時代以前は、この国のどこもかしこも、エコビレッジだったんでしょうね。今月の月刊・オルタの特集は「エコビレッジ」、僕の住んでいる街でも来年からゴミの蒐集方法が変わります。より分別の数が増えて(1)「リフューズ」(いらないものを断る。特にレジ袋は拒否、マイバック持参で)、(2)「リデュース」(ものを大切に、食べ残しをしない)、(3)「リサイクル」(資源の再生)、(4)「リユース」(繰り返し、何度も使う)と、結局、大量生産、大量消費に、「マッタ!」をかけることですが、それによって全体のパイが縮小することは否めない。結局、一方に偏り過ぎた有りすぎる財を、生存を脅かす少なすぎる財しかない人達に循環している水路を効率よく作りあげる「循環型社会」を街のデザインにしているわけですが、総論では文句の付けようがない。
 僕は町内会で「ゴミ減量推進員」の活動をさせられており、時々、研修なり、啓発運動に参加するわけですが、一番、肝心なことは、この地球規模の消費文明に疑念を投げかけることなんでしょう。駅前にあるナショナルチェーンの大型スーパーがいまだに、懇切丁寧なレジ袋サービスをやっていることでしょうね。僕は毎日、食材の買い物にこのスーパーに便利がいいから良く行くわけですが、時々、イライラすることがある。レジの前にお客さんが並んでいるのに、サッカーがいて2人体制ならともかく、たったひとりでチェッカーをやっているのに、わざわざ商品をレジ袋に入れてあげるサービスをする。せめて、適当にレジ袋をカゴに投げ入れて、後は勝手に自分でやりなさいとほっとけばいいのに、それをしない、そのために結構な時間が経過する。何故、こんなことをするのか、多分、そうすることが、売り上げ増になるとのデータがあるのでしょう。しかし、果たしてそうなのか、ひょっとしたらそうでもないのではないか、僕はこのところ少しは遠いけれど、原則、レジ袋をくれない生協スーパーで買い物をする頻度が高くなりました。
 ぎんぎらぎんの欲望が強すぎることが問題なのかもしれない、そういう視点から見ると、ニート、引きこもりの増加はこの社会にとっての財の分配を別の水路で調整していることになるのかもしれない。団塊の世代の両親に寄生しても何とか生活出来るなら、両親達が行政の代わりに息子達の面倒を見て、その空いたポジションに働きたいと積極的に動く若者たちがより入り易くなる。そんな迂回で就職氷河期世代の赤木さん達の団塊世代既得権益を寄こせ運動が結果としてささやかながら実現出来る側面がある。
 地球規模で見れば、ブリックス(ブラジル、ロシア、インド、中国)の他、新興国が「ぎんぎらぎん」の欲望で虎視眈々とパイを狙い、二桁代の経済成長率で、ぐんぐん伸びているのだから、欲望が縮小する若者がこの国でひとりでも増えれば経済の面のみならず、地球環境の面でも歓迎すべきことかもしれない。成熟社会は徐々に退却するのが、理に適っているかもしれない。ひょっとして、引きこもり、ニートは、賞賛すべき生を選択しているのかもしれない。そんな思考過程がもっと、もっと、表に顕れてもいいのではないか、そんな意味のないことを考えてしまいました。一人の「プータロウ」の誕生はこの世を救うかもしれないという呆れた大風呂敷を広げてしまいました。ジ・エンド
 「お前は欲望だけで生きてんのか」
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地球の上に朝がくる―川田晴久読本

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