<帝国>と脳科学の出会い

未来派左翼〈上〉―グローバル民主主義の可能性をさぐる (NHKブックス)未来派左翼〈下〉グローバル民主主義の可能性をさぐる (NHKブックス)マルチチュードの文法―現代的な生活形式を分析するためにポストフォーディズムの資本主義―社会科学と「ヒューマン・ネイチャー」無能な者たちの共同体無能力批評―労働と生存のエチカ
毎日新聞8月18日夕刊で、マイケル・ハート茂木健一郎の対談がアップされていますねぇ。アップほやほやだから、今のところロム出来ますから、興味のある方はどうぞ、そんなに長く保存されていませんからねぇ、多分。一部引用。

ハート 今の資本主義では、文化が中心的な役割を占めています。巨大企業は、文化の創造性に寄生して行動する。資本主義は自らの利益のため、人々にますます自律性を与えなければならない。かつては、資本が工場労働者に生産の手段を提供しました。しかし今は、ネットワークを通した文化生産や知的生産の機会が増えています。マルクスエンゲルスの『共産党宣言』に「資本主義は自らの墓掘り人を作りだす」とのくだりがある。資本主義は、自らに代わる新たな社会を作る潜在的な力を生み出しているんです。
茂木 最後は「愛」について。愛はパートナーや親子関係を超えた感情ですよね。
ハート 愛とは政治です。私とトニはその働きを理解しようと奮闘中です。私たちは『<帝国>』と『マルチチュード』に次ぐ、3冊目の理論書を完成させつつあります。そこで愛についても議論します。
http://mainichi.jp/enta/art/news/20080818dde018040034000c.htmlより

この三冊目の本は、『未来派左翼(上)(下)』とは違う見たいですねぇ。相棒のアントニオ・ネグリは書いているけれど。

ネグリヴィルノの言うマルチチュードは、指示対象としてはほぼ同じと考えてよいが、そこに賭けられた政治的可能性の評価が正反対。ネグリはひたすらに「正」の側を見て、マルチチュードに抵抗の可能性を見るが、ヴィルノにとってのマルチチュードはポストフォーディズム下で組織化された特異的個人のネットワークであり、「負」の側面に力点がある。どちらが正しいという評定をするつもりはないが、少なくともネグリ的アジリ、つまりプレカリアートの「煽動」は、どうなのよ、と思ってしまう。ヴィルノは60年代の労働からの離脱運動が70年代以降のポストフォーディズムへと、皮肉にも弁証法的に収奪されたという「系譜の引きなおし」を狙っているわけで、しかもポストフォーディズムは支配的なものというよりは勃興的なものととらえられるべきだろう(と、思う。違うかも)。そう考えると、ヴィルノが目指すのは「未完のポストフォーディズム」を、「少しだけ違う現在」へと練り直すことではないのだろうか。ネグリの(失敗の重みが感じられない、ひたすら元気な)急進主義よりは、説得される。

でも、ここで、id:shintakさんが、対比しているパオロ・ヴィルノの『マルチチュードの文法―現代的な生活形式を分析するために』、『ポストフォーディズムの資本主義―社会科学と「ヒューマン・ネイチャー」』の方が僕的にはどうしても興味がある。と言ってもヴィルノの本は未読なのです。読んでみたいです。
こちらの本も読んで見たい急進主義で紹介されている田崎英明の『無能な者たちの共同体』って、杉田俊介の『無能力批評』と問題意識が近いのだろうか、脳科学者の「脳・身体」(クオリア)が「無能な者たち」を含んだ愛へと政治がなされるなら、嬉しいですが…。