小幡績/ストラウスカーン/ジョジョ

メルマガでも既に読んだのですが、「ブレトンウッズ2」の新世界秩序(2) の記事・「▼IMFスキャンダルはフランス潰し」 で、IMFの専務理事のサルコジと気脈を通じているフランス人のストラウスカーンのエロゴト師振りを発端にミクシィで性にまつわるアメリカ、ヨーロッパ、日本とそれぞれの文化を背景にした、それぞれの実存にかかわる子供の教育、結婚制度など熱くなるやりとりがありましたが、
先日読んだ『1995年 未了問題』で中西新太郎杉田俊介が「サブカルチャーと批評」の中で、=無限に強さをめざす『ジャンプ』のエートスは資本制の基本原理にマッチしている=のやりとりで杉田さんはこんなことを言っていた。

 ウェーバーによれば、資本主義の発達を左右したのはプロテスタンティズムであり、中でもカルヴァン主義でした。カルヴァン主義の特徴は、二重予定説にあるとされます。カルヴァンは人間を徹底的に無力な存在とした。神の意志は人間には絶対わからない。俗世でどんな善行を積んでも、自分が救われるかわからない。そういう極端な人間の無力を説く宗教が、なぜ、資本主義を能動的にドライブさせたのか。究極的に神の意志がわからないなら、人は、あたかも自分が未来に救われると決まっている人間である「かのように」行動するしかないからです。世俗的な職業を「天職」と信じ、自分の仕事を通して神の意志を間接的に証明するしかない。さもなければ、自分が救われるという確信を得られないんですね。もともと禁欲的な労働だから。稼いだお金は浪費されず資本としてストックされ続ける。それが資本主義をドライブさせていった、という議論ですよね。
 「少年マンガの倫理と資本主義の精神」を、『ジャンプ』は、「努力・友情・勝利」としてカスタマイズしたのかもしれない。象徴的なのは『ドラゴンボール』のスカウターです。個人の強さが純粋に数値化される。それに先立つのは『キン肉マン』の超人強度でしょうか。『ワンピース』では海賊の賞金額ですね(これは厳密に強さと比例しませんが)。そして少年マンガの究極的目標は、「最強」であること、最強の身体を持つことでしょう。(中略)
 それに対して『ジョジョ』は、ウェーバーというよりスピノザに近いかもしれない。『ジョジョ』にも血統主義や遺伝子神学はあるけれど、まずは、人間の身体性や受動的な感情、弱さや狂気が肯定される。「特権的な身体」の高みから、切り捨てられない。しかし、その自分の弱さや身体性、無能力を自分なりに徹底してくと、むしろ能動的な能力として発現する。弱さを抱えている奴のほうが怖い、と。たしかに、それはある種のの宿命論ですよね。自分の「無能さ」は変えられない。これに対し、第六部のプッチ神父の能力は、人類の永劫回帰思想を、全人類に叩き込むようなものでした。ーー運命は動かせない以上、それを覚悟した人だけが幸福になれる、と。しかし、プッチの運命論は、何かまちがっている。別の運命論があります。自分の個体としての弱さは変えられない。どうにもならない。しかしその必然性を徹底して認識すると、弱さや受動性はそのままに、それが能動性に転化していく。それが『ジョジョ』の基本的な思想だと思う。能力主義やインフレを否定しないけど、それを別の可能性へと推し進める。能力と無能力の対立を廃棄する無能力主義、というか。無能力のアナキズムと言いますか。(p258〜260)

僕はどうやら、『ジョジョ』的なものに感染しやすいだろうねぇ。と言ったところで、まだ、『ジョジョ』を読んだことはないけれど、今度、読みます。
少年マンガの倫理と資本主義の精神」の中ではぐくまれる「努力・友情・勝利」にアイロニカルな参入を試みて一言何かを言いたくなる。僕はそのような性的なスキャンダルはどうでも良くて、何とか金融危機を乗り越え、新しい金融秩序が不可欠なら最適に軟着陸する施策をして下さいと言うだけです。金融・政治よりはスキャンダルの方が大事だという報道にはうんざりするのです。

1995年―未了の問題圏

1995年―未了の問題圏