「街的」/いき/テロワール/クオリア

『室内』40年 (文春文庫)

『室内』40年 (文春文庫)

内田樹『「街的」の骨法』江弘毅『ミシュランの記者会見』についてコメントしているが、内田さんが、言及している江さんの『「街的」ということ』の「街的」にしても、「テロワール」(お国柄)、九鬼周造の『いきの構造』の「いき」にしても、観念としてカテゴライズすると雲散霧消するもので、別の場、空間移動すれば、再現化出来得ない「何か」であって、再現化出来検証可能なものならそれは科学とも言えるし、三つ星で記号化も可能であるわけ。だけど、江さんが、「街的」で伝えたかったことは、そのような解明出来る科学ではなく、解明を断念した「ある手応え」なのだと思う。
でもそのような「ある手応え」(驚き)とも言うべきものを断念しないであくまで解明しようと冒険する科学者もいるわけで、その一人が脳科学者の茂木健一郎なのでしょう。僕は内田さんのエントリーを読みながら、茂木さんの「クオリア」について想起しました。

江さんの言う「街的」なる概念は『「街的」ということ』(講談社現代新書)に本一冊使って論じられているが、新書一冊読んでも「街的」ということはやっぱりよく意味がわからない。
どうして意味がわからないのかについては、かくいう私がその本の解説に「〈街的〉の構造」なる一文を寄せているので、そちらを読むと「どうして意味がわからないのかがわかる」ようになっている(行き届いた気遣い)。
なぜ「街的」の意味がわからないかというと、それは要するに「テロワール」ということだからである。
具体的ということだからである。
現に目の間に「あるもの」が存在し、たしかな特徴があり、魅力があり、それを指称する言葉として「これは・・・みたいである」という他のものと同類にくくりこむ言葉づかいが自制されるようなもの。
これは「これ」として屹立しており、他の何かと比較したり、その優劣を論じたり、類別したりするべきではないもの。
それが「街的」なものであり、「テロワール」である。
類似品がどこにもあって、ここでもよそでも、同じような仕方で、同じようなタイプの人間たちに「のべたん」で選好されているものは、収益の高い商品ではあろうが、江さん的なカテゴリーでは「街的」とは言われない。
江さんが『ミシュラン』に腹を立てているのは、それがぜんぜん「街的」ではないからだ。

クオリアも具体的で屹立したものですが、ただ、茂木さんは、10ノーベル(ノーベル賞が10倍)以上の叡智を結集すれば、いつか解明出来るとは言っているわけですよ。多分そうなれば、「テロワール」な各国語も三つ星ほどに翻訳可能なソフトが開発されるでしょう。
茂木さんは、いつかそれが可能な文脈で語っているけれど、可能だという文脈があるなら、クオリア解明がなされた暁には信頼性のある「ミシュランガイド」が登場するかもしれない。まあ、僕の目の黒いうちでは無理でしょう。
まあ、ネタ帳として利用する分には構わないが、思考停止のオンブにダッコで消費されるのは粋ではなく野暮。
勿論、このことは「衣食住」だけに限らない。政治もしかり、権威を記号化して思考停止でズボラに消費することはやめにしたいものです。
今日は本棚にあった山本夏彦の『「室内」40年』を読んでいましたが、山本さんも『街的』にこだわった編集人だと思います。
精神科医の斎藤さんが、往復書簡で茂木さんに問いかけた問いは、江さんがミシュランに質問した問いと同様な困難さがある。だけど、どのように応えるか聞きたいものです。