動的平衡
- 作者: 福岡伸一
- 出版社/メーカー: 木楽舎
- 発売日: 2009/02/17
- メディア: 単行本
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ES細胞は、それ自身だけでは完全な個体にまで分化・発生することはできないが、他の細胞の助けを借りれば個体を作ることが可能となる。実際、動物実験のレベルでは、ES細胞はそういう形で利用されている。
しかし、ES細胞の分化プロセスがまったくのブラック・ボックスであることには変わりがない。私は、このような生命操作技術は、あくまで生命のメカニズムを探るための基礎研究の手段に限られるべきだと考えており、商業的に利用されたり、性急な医療目的に使用されたりすることには反対である。遺伝子操作や生命操作を用いた生命科学研究は、ある種の不可能性を証明することに行き着くのではないか、と思えるからだ。
それは生命というプロセスがあくまでも時間の関数であり、それを逆戻りさせることは不可能だ、という意味である。(p165)
磯崎憲一郎は芥川受賞インタビューで確か、小説とは「時間を描く」ことだと言っていたが、映画であれ、音楽であれ、アートとして作品(いのち)を描くことは「生命の誕生」と等価なのであろう。
今や、バイオテクノロジーを使えば二万種のパーツを人工的に作り出すことができる。しかし、それらを試験管の中で混ぜ合わせれば、そこに生命が立ち上がってくるかといえば、決してそんなことはないのである。
ここで欠落しているのは、生命にとっての「時間」という観念である。タイミングとパーツは時間に沿って組織化され、それぞれの時点で何がどのように起きるかはたった一回限りの現象であり、不可逆的なものである。これを無理矢理ほどいて再プログラミングしようとしているのが、クローン技術であり、ES細胞技術である。
時間に対して作用を及ぼせば、私たちはその分のツケをどこかで払わねばならないことになるだろう。それが動的平衡というもののふるまいだから。(p166)
一回限りの現象だからと言って科学的でないとは言えないのです。再現できないから科学ではないと言い切る近代的科学はその限りにおいて有効であるけれど、限界もあるわけで、恐らく代替医療って、そのような隙間に入り込む個別・具体的な科学的振る舞いだと思う。
オウムの麻原が空中浮遊をしたことをこの目で見たことはないけれど、仮に見たとしても、「あ!そうか」で驚くけれど、だから「その宗教を信じる」こととは別の問題だと思う。再現できない一回性が「奇跡」なら、ビックリマークになってもその地点で消化してしまう。
あり得る奇跡として「鑑賞」するだけです。「信仰」とは関係ない。「空中浮遊の有無」はどうでもいいことなのです。
遊雲くんの雲が今日も浮かんでいる。そこに信仰の萌芽があるとしたら、「空」と対峙することから始まるのではないか?