活字はどこへゆく

部屋の掃除をしていたら週刊金曜日(2002.3.8/402号)の座談会記事「出版取次 『鈴木書店の倒産が語るもの』 活字はどこへゆく」のスクラップがあったので、引用してみます。
座談会のメンバーは鎌垣英人(大阪屋)、菊地泰博(現代書館)、田口久美子(ジュンク堂)、村田潔(元鈴木書店)、司会土井伸一郎(本誌編集部)

村田 鈴木書店の取引版元(出版社)はざっと400社と言われていました。ただ、そのうち上位10社で売り上げの70%以上をしめていたと思います。いわゆる岩波書店東大出版会有斐閣中央公論みすず書房筑摩書房などの版元です。一般読者からすれば特殊な本の範疇に入ってしまうのかもしれません。そういった取引が長い版元は正味(仕入値・卸値)が高いです。仕入値の高い出版社とより多くマージンをとりたい書店に挟まれた鈴木の利幅が驚くほど減っていったことも今回の下地になっていたことは確かだと思います。

鈴木書店の場合は2%のマージンなのです。通常では8%位です。そんな薄利で仕事をしていたのです。ただ、95年頃までは人文系も売れていたので薄いマージンでもなんとかやりくりしていたわけです。それにしても、70年、80年代は岩波書店朝日新聞NHKは就職先の人気ベストだったでしょう。給料も高く、社会的承認も高く、尊敬もされていたわけです。
僕がKLの関内店に居た頃の同僚で岩波棚の担当者がいたけれど、彼はシルクの手袋をつけて作業していましたw。岩波の後光が書店員まで届いていたんですね。後年、ハケンで大取次で働いていたおり、流通倉庫の岩波棚のハケン(協力社員と言われる)のNさんは、岩波の生き字引と言われていた。岩波フェチなのです。タイムカードも定時で打刻しても、岩波の棚を離れがたいのか、サービスで黙々と作業している。そんな奇特な人々に支えられていたのに高正味の版元は既得権益たる取次への出し正味を少しも崩そうとしなかったわけです。岩波は原則、買い切りです。でも、委託品は勿論、注文品でも交渉すれが、ほぼ返品出来る中・小版元の方が低正味なのです。買い切り版元の方が正味が高く、返品自由の版元の方がむしろ安く仕入れられる。感情としてはオカシイと思うけれど市場経済はそういうものなのです。

菊地 まず歴史的に言うと、具体的に出してもいいと思うんだけど、日販が正味の値引きを仕掛けて、大学生協をひっくり返し始めた時期があった。それで鈴木書店が一番割を食ったわけです。トーハンもそうだし、大阪屋もそうですが、帳合(取引先の取次)変更というのがありましたね。結局みんな正味競争で帳合を取るわけです。(略)/それと、ここは私は声を大にしたいのですが、出版社にも取次にも、ものすごい差別的な取引があるわけです。実際に日書連(日本書店商業組合連合会)の方と話しても版元・取次間の正味は一体どうなっているのかわからないんです。われわれも取次が書店にいくらで売っているかよく知らないんです。/20年ぐらい前に正味論争があったときには、基本的には七掛け(定価の70%)で、8%の口銭(マージン)を取次が取り22%が書店というのが一応パターンとしてあったわけです。/流対協にはいま中・小版元92社が加入しています。いま取次と新規取引すると67掛け(定価の67%)です。その上支払い条件で驚くほどの付帯的差別条件をつけられる、/鈴木書店の全取引高の9割が、全部7掛け以上の版元なんです。老舗だと、73掛けとか74掛けという高正味のところがいくらでもあった。岩波書店などは最盛期にはもっと高かったはずです。かつ「内払い」というのがあって、新刊を出した時点でもう取次からお金が入るわけです、たぶん、大手版元は50%以上もらっている、
土井 鈴木書店とは取引がなかったけど講談社小学館の二大巨頭が代表ですね。そういう大手は取次の大株主でもある。
菊地 スタートラインでの付帯条件を入れると大手と小出版社では10%も違うんです。これはどうしようもない。/新刊は委託ですから当然返品がきます、内払いをもらったところは赤字になると、また次の新刊を出さなくちゃならない。極端な話中身は何でもいいんです。本という形で取次に入れればいい。そうするとまたお金がもらえる。それで前の赤を消す。そのうち一発当たる。そうすればなんとかなく解消できるというのが今までの古い構造だったわけです。それがどんどん出版の点数を増やす結果になった。/『週刊金曜日』の読者の方にわかっていただきたいのは、大きな出版社と小さい出版社では取引・支払い条件においてスタート時点からすごく差があるということです。

ニセ札作り似た本作りのシステムはアブノーマルですよ。日本の出版流通システムにおける取次機能は世界に冠たるものかもしれないが、金の流れがどんぶり勘定であることは否めない。そうでありながら、大手取次は書籍・雑誌の物流だけではなく出版社と書店の資金繰りを支える「商社金融の機能をがっちり押さえていたわけです。
かって、雑誌『選択』2000.2号の「企業研究/日販」p92で日本長期信用銀行の破綻について言及されたが、1998年の長銀問題と出版流通業界の衰退は大いに関係があるでしょう。
僕は本山美彦×萱野稔人『金融危機の資本論』関連のエントリーでこの問題に少し触れていました。参照:http://www.bk1.jp/review/0000473870

鎌垣 本を読むことがステータスであった時代の人たちが、実は今こうやって話をしているにすぎないような気がしているんです。30代より下で、良書って何? イメージする出版社ってどれ? という話になったときに、こういう話には絶対にならないです。/確かに、よく「岩波的なもの」みたいな言われ方はしますけれども、岩波的なものという言葉は、今やもうないですから。
(略)
田口 でもそれは日本の戦後の民主主義の発達の仕方じゃないでしょうかね。思想的にでも文化でも何でも少しでも上に行くことが、日本にとって、個人にとって良いことだという暗黙の了解の中っで育ってきた、私たちの価値観のようなものがあるんだと思います。/でも、そうじゃない、30代とか20代の人たちは、本当に平坦。もう別に上を見るということはない。アメリカが素晴らしいと思うこともない。旧ソ連のあのシステムが良かったと思うこともない。その中で平坦に生きている人たちの価値観という部分と、文化のありようみたいなものが違ってきている時代に入ってきたのかなと思います。
菊地 戦後、民主主義というのが普遍化して、民主主義の価値と一致していた時代があったわけですよ。良書と言われるものが。
田口 本を読むということがね。戦後というより、明治以来そうだったんじゃないですか。
(略)
菊地 単行本でも、出版社の名前で買うんじゃなくて、面白いからって手に取るわけじゃないですか。それはたとえば講談社の本か現代書館の本かわからないわけ。書店では同価値になれる。それがまた本の面白味でもあるわけです。その同価値というところが。
鎌垣 そのとおりです。
菊地 そこがいいところだと思います、ほかの産業だったらやっぱり違うもん。超大手と超零細は絶対同じようなものは作れない。
土井 形の上では威風堂々一緒に並んでいる。
菊地 並んでいます。だから出版社を訪ねていくと、「えっ、こんな小さなところなの」っていう意外なイメージがあるわけです(笑)。
田口 でも専門書がマスの流通の上に乗りかかって売れてきたのは確かです。北海道から沖縄まで、雑誌があったから書籍も一緒に乗せていただけた、というシステムがあった。そのマスのものが減ってきているわけです。/そうしたら当然そのマス流通に乗せてもらっているものだって影響を受ける、私は、なんか活字は静に滅びていくかなと思う。その中で専門書の価格は高くなり、お客さんも少なくなる。でもやっぱり専門書とかは、本が好きな人の、ある客層というのは生き残る。p49

流対協(出版流通対策協議会)が差別的取引条件撤廃を掲げているいるのはわかるけれど、再販維持制度をを擁護しているのでしょう。もし、そうならどうしてそうなるのかわからない。